今、約2週間分の新聞に目を通していた。

ここのところ週末のたびに家族で釣りに出掛けたりしていたので、一面の見出しくらいしか見ていない日が増えていたからだ。

目を通すと言っても、きっちり読むだけの時間はないので、あらためて見出しを眺めるだけのものが多い。

新聞は、ネットと違い個人的な嗜好に偏ることなく幅広い情報が目に飛び込んでくる。

その意味で私にとっても不可欠なものである。

だがその一方で、「これは無駄に疲れるな」とも思っている。

今、時代は大きく変わろうとしている。変化の速度はコロナでさらに速くなっている。

今の新聞を見ていると、変化を強く意識しているところと変化についていっていないところが斑模様になっている。

当たり前で仕方のないことなのだが、ちょっと斑がキツすぎると感じることが多い。

例えば、

比較的スムーズに意識の変化が進んでいると思っていることなのに、

そこに新聞がわざわざ旧態依然の感覚を持ち込み、ブレーキをかけているように感じてしまうことがある。

もう時間や労力を振り向けなくてもいいことに対しても、

従来の常識に縛られるようにして、形骸化した無駄な作業や精神活動を社会に強制し続けているように感じてしまう。

世の中が変化していると言っても、変化の意味や速度は人それぞれである。

新聞はマスメディアであり、マス、つまり大衆をターゲットにした紙面作りをしている。

それがいいとか悪いとかではないのだが、とにかく歯痒さを感じてしまう。

この斑模様も、紛れもない現実として受け入れるべき現象なのだが、

今の新聞を眺めていると、個人的には少し不機嫌になってしまう。

見てしまうと不機嫌になることがわかっている。

どうせなら今のこの瞬間を気分よく過ごしたくて、それでなんとなく新聞を溜め込んでいたのだ。

読む前から少し憂鬱で、読み進めるとほぼ予想どおりにやはり憂鬱になる。

だが、新聞にはある程度目を通しておかないといけないと思っていて、

読まないままやり過ごすことは、今の私にはできない。

だから、溜めていた新聞をようやく読み片づけて部屋の中がさっぱりしたのだが、

日曜の朝なのに、今は少しつまらない気分になっている。

新聞を見ていると、思うことがたくさん噴出してくる。

いや、正確には「噴出してしまう」と言う方が正しい。

思うこと、言いたくなることが有りすぎて、

「これでは、喋ることも書くことも追いつかないではないか」と思い、具合が悪くなってしまうのだ。

噴き出してくる思いに見合うだけのアウトプットができれば解決するのだが、そんな時間もエネルギーも私にはない。

と言うことは、

新聞を見てしまうことは、今の私にとってバランスの取れないことなのかもしれない。

少なくとも、今の私には明らかにインプット情報が多過ぎなのだ。

無駄な刺激に興奮してしまうと、順序よくアウトプットすることが難しくなる。

無駄なことに興奮するだけの余力が、今の私にはないと感じている。

人にはそれぞれ役割があり、一度に全てを網羅することはできない。

多くのことをカバーしていくのだとしても順序がある。

もしかしたら、これからの私は新聞から少しずつ離れていくのかもしれない。

決めつけることはしないが、今朝の私はそんな気持ちにもなっている。