振り返ると、2023年の私もいろんなことをやってきた。
いくつか挙げてみる。
まず、春から農業高校で畜舎管理(清掃、給餌、実習立会)の仕事を始めた。
町内会の防災担当として自ら学びの場に飛び込み日々奮闘、
去年から主催しているアイヌ語勉強会を起点に、アイヌゆかりの地の訪問(4回)やアイヌ食の調理&実食会(2回)などを行なってきた。
3年ほど前から鉄道のマチ岩見沢のSL清掃等を続けるうち、春からSL保存会の幹事となった。
最近は、なり手不足が指摘される保護司としての活動を始めた。
他にもかじりかけているものがいくつかある。
マルチタスクを抱えるのは今に始まったことでもなく、それが悪いというわけではないが、
若い時のようには捌けなくなっており、
ちょっとしたことで疲れてしまうこともある。
これからどう折り合いをつけてやっていくか、、今はそこを考えている。
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2020年春、私は50歳で北海道庁を早期退職した。
2016年に次女が急逝するなど、退職した理由は一言では語れないが、
要は、公務員としての役割以外に「やりたいこと」がたくさんあったからだ。
色んなことに興味があるのは元気な証拠。悪いことではないのだが、私の場合、いつの間にかオーバーワークに陥りやすい。
それで破綻したことはまだないが、
小さくないストレスを感じながら、最適と思われるポジションを、いまだ探し続けている。
だが私の場合、ずっとこんなものなのかもしれない。
そんな風にも思う。
これまで色んなことに首を突っ込んできたが、
しっくりこないと感じた時は執着せず、静かにそこを離れてきた。
しっくりこない理由はさまざまである。
気力体力が追いつかなくなったとか、集団の方向性が私の考えるそれとは微妙に違ってきたとか、よくわからないけどなんとなく縁遠くなったとか、、
だが、結果としてそこを離れることになったとしても、そこで得てきた経験は私の中で永遠に生き続ける。
だから、
別れには誤解や痛みなどがつきものだが、
どんな場合でも、
縁のあったすべての人たちへのリスペクトが失われることはない。
特に意識せず、自然とそうしてきたのだが、
そうしたことを繰り返すうち、学んだことが多々ある。
経験は力。
自分とは違う考え方をも敬い、それらに直に数多く触れることは貴重な財産となる。
そもそも摩擦のない場所などどこにもない。
摩擦は試練。チャンスであり、必要な試練を乗り越えることによって、人としての成長と喜びを見出すことができる。
だが、残念なことに、摩擦を邪魔なものとしか考えない人も少なくない。
バカにして延々と攻撃したり、完全に避けて通ろうとする人もいる。
それはそれで仕方ないとも思う。
だが、いつまでも何かしらの形で対象を受けとめようとしない姿勢のままでは、
そこで人としての成長が止まってしまうだけでなく、おそらく年を経るごとに不完全燃焼感を強めてしまうことになる。
だから私は、摩擦を過度に避けるべきではないと思う。
もちろん、自分の力ではとても手に負えないモノにまでガチンコする必要はなく、
そういう時は適切と思われる距離感を保ち、ひと当たりした後、いなすようにして通り抜けることもある。
そうした手探りの経験も財産になる。
摩擦を感じることなく、驚くほどスムーズに関係が始まることもあるが、
基本的なところが一緒のようでも、実際にはけっこう違うものだ。人にはそれぞれ事情がある。
正解は一つではない。100個ある時もあれば、0個の時もある。
何をしてもしなくてもいい時もあれば、その反対のこともある。
うまくいかなくなると、たいてい、その原因を探すことになるが、
その時、原因を特定し、力を合わせて真っ直ぐに改善に向かうのではなく、
集団で悪者を作り出し、吊し上げ、攻撃に向かう場合がある。
今の私はそういう集団にはなじまないので、いずれそこからは退くことになるが、
だからと言って、その集団がダメだとは思わない。
私がその時に「違う」と感じたとしても、
時と場合によっては、遠回りすることがどうしても必要なこともある。
だから、自分が思っていたようにならなかったからといって、それが間違いだとは思わない。
結果として、反面教師になることもあれば、苦境を乗り越え、また一緒になにかを始める場合もある。
いずれにしても素晴らしいではないか。
何がどう転んでも、いいことにしかならない。
だが、始めなければ何も起きない。
モヤモヤしたものを抱えたまま、遠くから対象を眺めるだけで、
勝手に焦ったり、不満を感じて、不毛な愚痴ばかり繰り返してしまったり。。
やはり、まず実践、行動、経験することが大事なのだと思う。
「何を為すか」というのも大事だが、
それ以上に、「とにかくやってみる」と思う気持ちを私は大切にしている。
この気持ちがなければ何も始まらないのだ。
言い訳ばかりして、いつまでも行動を先送りしていてはダメなのだ。
さらに、
いつまでもダメだと思っていることは、もっともっとダメなのだ。
結局、サッサと行動に移すしかない。
小さなことから、自分のできることをやる。それに尽きる。
その瞬間、人生のスイッチが切り替わる。
人間としての時間は有限。
20代の1年と、60代の1年は同じではない。
同じことをやろうとしてもできないこともあるし、出来たとしてもその意味は同じではない。
かく言う私も、ずっと先送り思考に支配されてきた。
自信がなく不安だらけ。失敗したくなかったし、ひどく人目が気になった。
だから、言い訳をして、やりたいことがあっても先送りを繰り返してきた。
今も後悔しているが、いつまでもそこで立ち止まっているわけにもいかない。
私の時間はどんどん失われていった。
後悔で心と身体が埋め尽くされていくような恐怖が芽生え、心身が病み始めた。
潤沢にあったはずの気力体力、時間と可能性が加速度を増して失われていく。。
このままでいいのか?
すでに若いとは言えないが、何もできないところまで老け込んでしまったわけではない。
いつからでも、気づいたその時からやればいい。
そう思ったから、私は行動を始めた。
その時、私は、たしか47歳だった。
あれから7年。
行動を始めても、何もかもがスッキリするわけではない。
全てスッキリするなどというのは、完全に幻想だ。
人生はおそらく、どんなことをしてもしなくても、ずっと摩擦の連続で、試練が次から次へと被さってくる。
いつも困難で、曖昧で、不安定なものだ。
その中で、自らの生きる力を感じ続けることこそが喜びだと、
今の私は、そう思っている。
苦しんだ時期があるから、ここまで来れたとも言えるが、
おそらくどこまでいっても達成感はない。むしろこれからだと思っている。
だから、
「生活のため、今は組織に縛られるのも仕方がない」などと言えば、もっともらしく聞こえるかもしれないが、
結局、むやみに消耗を繰り返しているだけなのだとしたら、
はっきり言って間違っていると思う。
いつまでも消耗しているヒマなど、本来はないはずだ。
もちろん、消耗することから逃れられない場面もある。
だが、問題は、そこから本当に自分の力で立ちあがろうとするかどうか。
そうした試練を乗り越えるのは、すごく価値のあることだと思う。
家族がいればなおさら。
自分の殻の中に閉じ籠るばかりでなく、俯瞰して考える。
家族は、一家の大黒柱がやりたいこともやらずにジリジリと消耗していくことを望んでいるだろうか。
まして、何をしたいかもわからなくなっているような私の姿を見たいと思うだろうか。
私は、19歳で急逝した次女から全部見られているような気がした。
娘ががっかりするような生き方はできないと思った。
家族だけでなく、知らない顔をしているようでも周りはみんな見ている。
自分はどんな現実を作りたいのか、そのためには、今どうあるべきなのか。
たしかに周りが悪いこともある。
だが、いつまでも周りのせいにしていても自分が損するだけなのだ。
現実には、長年グズグズしていた惰性もある。
自分自身の中にも、自分を取り囲む周りにも惰性はある。惰性はかなり手強い。
だが慌てないことだ。
惰性が手強いなら、反対に味方につければよい。
私は、焦ってもダメだと思い、なんとなく心地良い時間を増やすようにした。
リラックスして、これから何を為すべきか考える時間を増やしていった。
心地良さを伴いながら、思考行動と現実との距離を少しずつ縮めてきた。
やがて、それまでとは違う新しい惰性が働き始めた。
無理なく自然に流れが変わり始めた。こうなると本当に楽だ。
心地良いから、楽だから、今もそうしている。
自分自身の意識と行動を、一進一退を繰り返しながら、長い時間をかけ、少しずつでも変えていけば流れは絶対に変わる。
変わるしかない状況に、自分も周囲も変えていくのだから、変わるに決まっているし、実際変わってきた。
いくらなんでも無理だと思っていたことでも、気がつくと案外できていたりするものなのだ。
少々能天気だと思われてもいいじゃないか。基本的に元気でいれば、とりあえず楽しいし、どうにかなるものだ。
今でも自信のないことがほとんどだし、将来の心配もする。
私は普段からよく俯瞰する。
自分の人生の、今と未来をぼんやり脱力して眺めている。
こうして眺めることも惰性にしてきた。
ぼんやり眺めていると、抱えている不安や心配よりも、もっと大きな生気を保ち続けるべきだと、当たり前のように思うし、
その気持ちの延長で、思いつきでテキトーに面白いことを考えているだけで、いつの間にか、勝手に元気になっている笑
この方が楽で得だと思うから、そうしている。
そしてそのうち、意識しなくてもすべてが自動的にそんな風になっていく。
生き方は人によって色々だが、私の場合はこんな感じ。
繰り返すが、最初から今のように考えていたわけではない。
失敗をおそれ、人目を気にし、モジモジしている時間がものすごく長かった。
そして、そこから、ドン底と思ったところから、これからどうあるべきか考え、
何年もかけて少しずつ変わってきている。
これからも私は変化し続けると思う。
この世は常に流れ、どこにも安定など存在しない。
私だけ変わらないでいようとしても、同じ場所に留まることなど絶対にできない。
これからもつまらない幻想に縛られたりせず、不安定で曖昧な中に身を置きつつ、
揺さぶられる心を楽しみながら、歩き続けたい。
誰でもいつからでも好きなようにスタートできるが、より若い人には年寄りよりもチャンスが多い。
人生の選択はいつも自由だ。
