岩見沢生涯学習センターいわなびで、定例のアイヌ語勉強会(毎月第1土曜の午前)を行った。
①かつて雨竜町にあったフシココタンの話(杉山四郎先生)
石狩川と雨竜川は、北海道雨竜町の東部で合流している。
かつてここに大きなアイヌの集落(フシココタン)があり、人々は丸木舟を使って狩りをしていた。
現在、雨竜町市街地と滝川市江部乙を東西に結ぶ道道279号線に大きな橋(江竜橋)がある。
この橋ができる前は石狩川の両岸に渡船場があり、この土地のアイヌが船頭を務めていた。
江竜橋の西側、石狩川伏古渡舟場跡に碑文がある。

これによると、フシココタンは元々は15~16戸ほど、約60人の大きな集落であったが、
明治22年、阿波藩(徳島県)の蜂須賀氏がこの地に農場を開き、フシココタンのアイヌも半ば強制的に農業に従事させられてきた。
蜂須賀の農場経営は独善的と言うよりなく、この一帯は蜂須賀の農場として一方的に取り上げられ、昭和10年にフシココタンは消滅。居所を奪われたアイヌの人たちは各地に離散している。
雨竜町の道の駅の近くに雨竜町農業資料室(雨竜町農業総合管理センター内)があるが、
そこには大正15年10月に撮影されたフシココタンの貴重な写真があり、当時のアイヌの人たちが写っている。
空知の地名も大半がアイヌ語由来。和人の進出後、アイヌの生活はどう変わったか。今とこれからについても考え続けたい。

②アイヌの季節、冬について
冬のことを「マタ」と言う。
「マタ」のアクセントは後ろにあり、「タ」を強めに発音する。
「冬が来る(来た)。」は「マタ エㇰ」(マタ=冬、エㇰ=来る(来た))と言う。
※アイヌ語の動詞には過去、現在、未来の表現上の区別がない。
春は「パイカㇻ」、夏は「サㇰ」、秋は「チュㇰ」、冬を「マタ」と言う。
「年」のことを「パ」と言い、「今年」のことを「タンパ」(タン=今、パ=年)と言うが、
「サㇰパ」(サㇰ=夏、パ=年)、「マタパ」(マタ=冬、パ=年)のように、一つの夏だけで1年、一つの冬だけで1年、といった表現もみられる。
寒いことを「メアン」(メ=寒さ、アン=ある)と言う。
「今日は寒い。」は「タント シㇼ メアン」(タント=今日、シㇼ=様子、メアン=寒い)と言う。
本格的に寒くなると、「タㇱコㇿアン」(タㇱコㇿ=強い寒波、アン=ある)と言い、
「酷い寒さにやられる」の意は「メライケ」(メ=寒さ、ライケ=殺す)とも言う。
「私は寒さにまいっている」は「クメライケ」(ク=私、メ=寒さ、ライケ=殺す)。
「雪」のことを「ウパㇱ」(ウ=お互いに、パㇱ=走る)と言う。
雪が降っている時に空を見上げると、雪がお互いに追いかけっこをして舞い降りてくるように見えることから、このような表現になったと言われている。
「雪が積もる」ことを「ウパㇱポロ」(ウパㇱ=雪、ポロ=増える)、
ドカ雪、大雪を「ポロウパㇱ」(ポロ=大きい、ウパㇱ=雪)と言う。
「雪かき」は「ウパㇱケ」(ウパㇱ=雪、ケ=削る)、「雪崩(なだれ)」は「ウパㇱホルッケ」(ウパㇱ=雪、ホルッケ=崩れる)、「氷柱(つらら)」は「ノキペコンル」(ノキ=軒、ペ=雫、コンル=氷)と言う。
「吹雪」のことを「ウプン」と言う。旭川に雨紛(うぶん)という地名がある。
「氷」を「コンル」(コン→コㇿ=持つ、ル=溶ける)と言う。「いずれ溶ける(もの)」の意。
真冬を「マタノㇱキ」(マタ=冬、ノㇱキ=真ん中)、越冬することを「マタリヤ」(マタ=冬、リヤ=(冬を)越える)と言う。
一冬越した子熊のことを「リヤㇷ゚」(リヤ=(冬を)越した、ㇷ゚=もの)と言う。
アイヌは冬の終わりに冬眠中の「キムンカムイ」(熊)の巣穴を狩るが、
そこにヘペレ(子熊)がいた場合、ヘペレを家族同然、あるいはそれ以上に大切に育てる。
ヘペレ(子熊)がコタン(村)で越冬して十分に成長したら、丁重に、あらん限りのご馳走や供物とともに、「カムイモシㇼ」(カムイ=神、モシリ=国)に送り返す。
これが「イオマンテ」(イ=それ、オマン=送る、テ=~させる)。
③アイヌ語で新年の挨拶をなんと言う?
アイヌ語の新年の挨拶は色々あるが、、
たぶん一番有名なのは、「アシㇼパ アウㇰ ワ オンカミ アン ナ!」。
(アシㇼ=新しい、パ=年、ア=私たちが、ウㇰ=受け取る、ワ=~なので、オンカミ=拝む、アン=私たち、ナ=~しましょう)の意で、
直訳すると、「新年を迎えたので、みんなでお祈りしよう!」となる。
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岩見沢アイヌ語勉強会☆ミナパは、2024年もアイヌ女性団体メノコモシモシの多原良子先生に来ていただき、アイヌ食の調理&実食会等を行う予定。
また、ウポポイや二風谷、知里幸恵記念館などのほか、近隣のアイヌゆかりの地の訪問も複数回企画している。
まずは、雪がとけたら杉山先生とともにシスントー(新十津川町)やフシココタン(雨竜町)に行く。
昨年末、北海道新聞の空知面に杉山先生と当勉強会の記事(12/28付け)が掲載され、徐々に仲間が増えていく予感がある。
次回の勉強会は、節分2月3日(土)。今年もどうぞよろしくお願いします!

「明治22年、阿波藩(徳島県)の蜂須賀氏がこの地に農場を開き、フシココタンのアイヌも半ば強制的に農業に従事させられてきた。」は、事実誤認です。
トンビン氏が、農業に従事しましたが、誘いに応募した結果です。
美唄
平 隆一
コメントありがとうございます。
たしかに稲高トンビンはよく農業に専念しましたが、そもそもこの一帯は頻繁に氾濫して水がつくなど、あまり農業に適さない土地であり、トンビンを除くほとんどのアイヌは早々に狩猟採集中心の生活に逆戻りしています。
トンビンとて、当時の状況に逆らえず、やむなく農業に打ち込んでいた可能性もあります。
蜂須賀農場を巡っては、複数回にわたり激しい農場争議が繰り返されており、経営側と小作側との対立が長く続きました。
他にもさまざまな視点からの考察が可能ですが、「フシココタンのアイヌは半ば強制的に農業に従事させられていた。」という認識はおおむね間違ってはいないと考えられます。
「事実誤認」であるとのご指摘ですが、トンビンが農業に従事していたことをもって「事実誤認」であると言えるものでもないと考えています。
トンピン氏は、小作人ではありません。
拙著「19世紀 空知のアイヌ史」を読んでいただけると嬉しいのですが。
トンピン氏が入植したのが、明治23年です。
明治36年には、7戸31人に増加しています。
大正6年には、16戸69人まで増加しています。
さらに、昭和5年頃から、追い出しがはじまり、
昭和13年を最後として昭和14年には、消滅しています。
「当時の状況に逆らえず、やむなく農業に打ち込んでいた可能性もあります。」は事実です。
これは、家族を養うために仕方のなかったことです。
当時杉村キナラブックさんが、3才でしたし、6人の家族を養う方法として、無料で土地がもらえるとの話に、やむなく応募したと推定できます。
このことについては、杉村キナラブックさんについての記事にも記載があります。
「明治22年、阿波藩(徳島県)の蜂須賀氏がこの地に農場を開き」とありますが、
明治23年に、「華族組合雨竜大農場」が開設されました。
明治26年に解散し、蜂須賀、戸田、町村の3農場が開設され、開墾が引き継がれました。
細かなことですが、正確な方が良いかとおもいます。
他にも、気になることがありますが、ご自身で、再調査をなさった方が良いかと思います。