テレビをつけたらワールドシリーズをやっているので、野球の話を一つ。
私は今52歳。野球歴45年ほどになる。
プレーヤーとして技術を磨き、戦略を組み立て、試合に没頭する視点だけでなく、
興行や球団経営、野球そのもののあり方についても色々と思うところがある。
ここでは「予告先発」について。
アメリカでは、昔からなんとなく先発ピッチャーの予告が行われており、
日本でも、ファンサービスの一環として1985年にパリーグで日曜日のみ導入されたのを皮切りに、
今ではセパ両リーグの公式戦全試合に適用されている。
だが、私は予告先発が嫌いだ。
原点に立ち返り、アマ野球を考えてみればわかると思う。
本来、野球のスターティングメンバーは事前に公開するようなものではない。
蓋を開けるまで、互いに誰が出てくるかわからないというのも、複雑な戦術を駆使する野球の醍醐味の一つである。
だから私は、
予告先発の導入により、楽しみの一部が失われ、野球そのものが変質していると感じている。
日本のプロ野球で予告先発が導入されたのは、結局のところアメリカに引っ張られたからにほかならない。
何故アメリカで予告先発が行われてきたかというと、
余程のことがない限り、先発ローテーションがはっきりしているため、
特に力のある投手の場合、事実上の予告先発みたいなムードが形成されてきた。
単なる「ムード」に過ぎない。
制度として予告先発があるわけではない。
一方、日本では、
アメリカほど先発ローテーションが固定化されておらず、蓋を開けるまで互いのスターティングメンバーを探り合う文化が長く続いてきたのだが、
本場アメリカとの文化の違いが良くも悪くも指摘され、球団経営の側面から集客を増やす必要性も強まり、
賛否両論あったと思うが、
結果として予告先発が制度化されてきた。
もちろんメリットはある。
だが、ファンに迎合し過ぎて本質を捻じ曲げていると言えなくもない。
経営を考えると仕方がなかったと理解しているが、純粋に野球を楽しむという観点で突き詰めていくと、
私個人は残念な流れだと思っている。
私の学生時代はプロ野球の予告先発はまだ一般的ではなく、
コアな野球ファンは、両軍ベンチの読み合い、馬鹿し合いをも含めて「今とは違う野球」を楽しんでいた。
「当て馬」を知っている人も少なくなった。
当て馬は、
30年前のプロ野球では、無視できない「戦術」の一つであった。
姑息だとか、当て馬要員が可哀そうだとか言われてきたが、
私はそうは思わない。
ギリギリまでスターティングメンバーを伏せることにより、ゲリラ的な戦い方が成立するチャンスが生まれ、
両軍ベンチは考えうるあらゆる仕掛けを想定し、準備しなければならない。
その頭脳戦、騙し合いが面白いのだ。
1982年に大沢親分の仕掛けた奇襲も予告先発が当たり前になった今では起こり得ない。
https://www.chunichi.co.jp/article/80162
初登板でノーヒットノーランを達成した近藤真一に、あの日出番が巡ってきただろうか。
まだ荒削りだがハマればブレークする可能性を秘めた若手選手、
盛りを過ぎてはいるが、一定の条件が揃えば力を発揮できるベテラン、
一芸に秀でた選手などなど、
当時のプロ野球には、選手個々の役割分担がはっきりしており、個性的な選手の力をタイミングよく引き出せる土壌があったと思う。
予告先発が当たり前になると、野球そのものが変質する。
どの選手も試合前に丸裸にされ、あらかじめ対策されてしまうため、
選手には一芸に秀でることよりもトータルバランスが要求される。
そうしないとそもそも試合に出るチャンスがない。
たしかに選手のレベルは高くなっている。
平均点は高いかもしれないが、この環境では個性的な選手は生まれずらい。
必然的に振れ幅の小さい野球が展開されることになり、
今の野球には、私は、昔ほどの魅力を感じない。
予告先発を導入し観客は増えたが、
日本プロ野球の、野球そのものの魅力は減退していないだろうか。
ダメ出しをしたいのではない。
北海道にも地域密着の野球チームが次々と生まれている。
アメリカのメジャーリーグや日本のプロ野球のようなレベルにはほど遠いが、
独立リーグには荒削りだからこその面白さがある。
レベルはもちろんだが、それ以上に純粋な楽しさや未来への夢を追求し、
その喜びを大きく広げていきたい。