若い人からある相談を受けた。

「尊敬できると思っていた人に一生懸命尽くしてきたのに、ある時を境に意志の疎通がうまくいかなくなり関係が途切れそう。」、

「今まで騙されてきたに違いない。搾取されたことに怒りの感情が収まらない。」

だいたいこんな感じ。わかる気がする。

どちらかと言うと、私もお人よしの部類に入る。

公務員在職中からボランティアで活動することが多く、

自分が役に立てるかもしれないと思った時には、一心不乱に働く方だ。

そうこうしているうちに、信頼してもらい次々と新しいことを任せられる。

意気に感じると、自分でも驚くくらいのものすごい力が出ていることがある。

だが、今までの私の経験では、

一仕事終えると、これまでと同じようにはそこで働けなくなっていることが多い。

私自身が燃え尽きてしまっていたり、

何かしらの実績を挙げたがために、以降、そこに自然に収まる場所がなくなっているからだと思う。

人は見返りを求めたがる。

一生懸命頑張ってきたのだから、その功績に見合うものが与えられてしかるべきだと、そのように考えがちだ。

ボランティアのつもりでいたはずなのに、

口にはしなくてもそのように考え、自然と顔に出る。

これが周囲に伝わると場の空気に馴染めなくなる。

なんの見返りを求めていなくても、

周りが気を遣うようになることも少なくない。

見返りを渡したくても、渡すものがなければどうしようもないのだ。

これはもう仕方がないと思う。

長くそこに居続けたいのなら、

あまり頑張り過ぎず、のんびりやっていく方がいい。

全身全霊を傾け、やり遂げたのなら、自分と周囲は変化している。

経験が自身の力になっているのだから当たり前だ。

全力を傾けるということと、そうした変化を受け入れることはセットだ。

自分自身や周囲を揺り動かすような経験はなかなか出来ることではない。

まずは活躍の場所を与えられたことに感謝すべきで、

見返りが少ないと心に不満を膨らませてしまうのは筋違いだし、

自分自身を毒してしまうことになる。

そこに居場所がないと感じるとしたら、

それは自分自身が成長したからだ。

そこをしっかり受けとめることができたら、

気がついたら新しいステージに進んでいる。

そんなものだと思う。

前に進むことは楽しい。

楽しいが、苦しみもある。私もその都度、複雑な感情に苛まれてきた。

悔しいとか悲しいとか、残念だとか、色々ある。

そうしたものをそのまま抱えたまま、前に進んでいる。

搾取する人は必ずいる。

色んな見方ができるが、私は、搾取することが全て悪いとは思っていない。

悪意を持って、最初から騙すつもりなのはあまり良いことではないが、

それでさえ、見方によってはなんとも言えないところもあると思っている。

自分一人ではなし得ないことをなすためには、自分以外の誰かの力が必要である。

そのために手段を選ばないと考える人は、意外と多い。

きっと、そうした人も必要なのだ。

私だって、時と場合によってはそうなるかもしれない。

この世からいなくなることはないし、いなくなるべきと考えるのも違うと思う。


そうした人(搾取する人)もいるという前提で、各人が互いの魂を磨き合えばいいのではないか。

ガッツリ搾取されたとしても、

本当に全力を尽くしてきたのなら、その経験は自分自身の力になっているはずである。

私はそれだけで十分だと思う。

そこで「騙された。」と思えば、心が濁り、せっかく積み上げてきた経験の価値も下がってしまう。

私は、

「またいいように使われちゃったな。」と少し不満を抱きながらも、それよりも、

貴重な、頑張れる舞台をいただけたことに感謝し、

その気持ちを胸に、さらに新しい刺激を求め、自分の足で歩いていきたいと思う。

経験してなんぼだと思うのだ。

搾取されるのが怖いから挑戦しないとか、

不満を膨らませながら同じ場所に留まり続けるとか、

そういうのはもったいないと、私は思っている。

自分の足で歩いていると、次々と新しい刺激、出会いがある。

どんなに澄ました顔をしていても、

何かの拍子で心の奥底の感情が暴れだすこともありうる。

山でいきなり鉢合わせた熊のように、暴れだすかもしれない。

私は熊とも普段から仲良くしたいと思っている。

昔の人は熊とも普通に折り合って生きてきたのだ。

とにかく、方々で感じるさまざまな感情を楽しめるようになれたらいいのではないか。

私はまだ道半ばだが、苦しみながら歩くのがそこそこ好きである。