今日は月に一度のアイヌ語勉強会に参加してきた。

先月に続き、30分の枠をいただいたので、

今回はアイヌ民族に伝わる「祈り」について、私の思っていることを話してきた。

こうしてたまにアイヌ文化について語る機会があるが、

私は先生とか講師をしているつもりはない。

アイヌ民族でもないし、高名な方から一子相伝の教えを受けてきたわけでもない。

ただ、人一倍の情熱をもって学んできた自負はある。

だから、私なりに思うところはある。

自分から何かを主張しようとは思わないが、

縄文から引き継がれてきた精神文化について、誰かと思いを共有する機会が増えればと思っていて、

求められた時には、素直に自分の思いを話そうと思っている。

これまで学んできたことの中には矛盾することも多々あるが、

私はそのうちのどれか一つが正しいとか、正統だとか、そんな風には物事を眺めていない。

どの説にも、その説が生まれた理由や背景がある。

だからどれもこれもそのまま、その存在を受けとめている。

この人はAと言っているが、あの人はBと言っている。

この本にはCと書いてあるが、ネット上ではDの話が流れている。

こうしたことをそのまま受けとめている。

どれもこれも現実に存在しているのだから、握りつぶすようなことはしない。

明らかに不自然なことであっても、そこに存在しているということは、必ず何らかの理由がある。

存在理由や背景を想像することが楽しいのであり、

正誤や優劣順位をつけることに力を込める気には、私はならない。

全体を眺めた上で、

私は、私が感じていることを、自分の言葉で話すようにしている。

そうすることによって、

他の人からも色んな話を聞くことができる。

これが楽しいのだ。

今、この瞬間を楽しみ、想像力をフル稼働し、

未来思考で、思いを共有し合うことに喜びを感じている。

今日、私が持ちかけたのは「祈り」の話。

私は、アイヌ民族に伝わる祈りは、日常の生活そのものだと解釈している。

あくまで私の解釈である。

儀式の時だけ突然畏まるのではなく、

常日頃から、無数のカムイたちとの対話を繰り返すのが祈りだと思っている。

自分を取り囲む無数の魂から届くメッセージ。

そことどう向き合うか。

送られてきたメッセージにどう応えるか。

祈りは、一秒たりとも途切れることのない、周囲の無数の魂との連続的な対話であり、

何かに縋るような祈願系の祈りとは根本から性質が違う。

  • カントコロカムイ(天を司る神)
  • シリコロカムイ(大地を司る神)
  • シランパカムイ(大地を支える神)
  • レラカムイ(風の神)
  • ヌサコロカムイ(祭壇を司る神)
  • ワッカウシカムイ(水場の神)
  • チセコロカムイ(家の守り神)
  • キムンカムイ(山の神=熊)
  • レプンカムイ(海の神=シャチ)
  • コタンコロカムイ(村の守り神=シマフクロウ)
  • アペフチカムイ(火の神)
  • ウエンカムイ(悪い神、血迷った神)
  • パコロカムイ(疫病の神)

私たちの周りには他にもたくさんのカムイがいるが、

先人たちはきっと、無数のカムイたちと日常的にたくさんの対話を重ねてきたのだ。

カムイの中には、いいのもいれば悪いのもいる。

いつもはいい仕事をしているカムイでも、時々ミスをすることもある。

カムイと私たち人間は基本的に対等な関係にあり、

だからこそ、日頃からの対話が大切と考えられてきた。

今日は、だいたいこんな話をしてきた。

私はこうした受けとめ方をしているという話である。

私自身の心の持ち方の問題であり、

カムイが本当に存在しているとかいないとか、そんなことは論点ではないのだ。

この大地に生まれ、この大地に生きている以上、

この大地に引き継がれてきた精神について学ぼうと考えるのはごく自然なことである。

現代に生きる私たちには関係ないことと思っている人も多いが、

私はここに、現代人がどんな心持ちで生きるべきかのヒントが潜んでいると思っている。

一人ひとりが学び、それぞれの生き方にあった心持ちを見つけ出していけばいい。

私は常日頃から無数の魂たちと対話をしているつもりでいる。

その方がリラックスした状態で精神が研ぎ澄まされ、幸せな感じがするから、そうしている。

様々なメッセージを感じ取ることができ、心豊かでいられるような気がするのだ。

今日も一日楽しかった。

ソンノ イヤイライケレ。