先日、古い友人と少しややこしい話をした。
ややこしいのでなかなか人に話す機会がなかったのだが、
ずっと前から、、こうしている今も、
私の頭の中でグルグルしていた(いる)ことだ。
だが、たしかにややこしいのだが、
現代の思考パターンというか、考え方のクセに阻まれやすいというだけで、
元々はごくシンプルな話である。
根っこが伝わりさえすれば、とてもシンプルで面白い話だと思っていて、
私としては、それを誰かと共有したいだけで、
何か思い悩んでいるわけではない。
口にするとハナから誤解される可能性があるので話しずらいのだが、
先日、古い友人に少しだけ話してみた。
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一言で言うと、「自己承認欲求とは何か」という話である。
自己承認欲求は、
ある意味において、私たち人間の根源的な欲求の一つとしてとらえられることもあるが、
私は、自己承認欲求は、
現代人に顕著にみられる、特殊で後天的な欲求であり、
全ての生物に当てはまるような普遍的で根源的な欲求とは性質が違うと、そのように思っている。
これを人間だけのものと言い切るつもりはない。
だが私は、人間のように社会が発達し、その中で揉まれるうちに生まれ、膨らんできた欲求だと思っている。
人間も元を辿っていくと、地球上の他の生物と出どころは一緒である。
そう考えると、人間以外の生物にも自己承認欲求の「種」のようなものがあるのだろうが、
少なくともそれは、現代人の抱える自己承認欲求と同じではない。
だから、言葉の定義の仕方にもよるが、
自己承認欲求は、
人間の社会が発達する過程において、現代人に後天的に備わってきたと考えるのが自然だと思っている。
と、ここまでは誰と話しても共有しやすい。
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問題はここから先の話である。
それこそ無数の切り口があるが、
例えば、
地球上のほとんどの生物は、その存在そのものと地球環境との釣り合いが取れているのに対し、
現代人はそのバランスを著しく欠いているとみることもできる。
近年は「持続可能」などといった概念も広まってきており、
この手の話は、
近代における自然環境の汚染や破壊の話につながりやすく、
それが人間のダメなところ、みたいな話に流れていきやすい。
だが、今ここで私が指摘したいのはそういうことではない。
それと同じか、いや、それ以上に、
色眼鏡を外した状態で物事を受けとめることも大切というか、必要だと思うのだ。
現代人には物事をすぐに評価、判定しようとするクセがある。
それはそれで必要なことなのだが、
いきなり良し悪しの判定を下し、そこから先の思考を止めてしまうのではなく、
その生い立ちと現状、未来展望などについて、さらに掘り下げて様々な思考を巡らせてみたいのだ。
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また話を戻す。
人間の数が増えることによって社会が生まれ、
社会は、加速度を増して目まぐるしく変わり、膨張し続けている。
だから、自己承認欲求は、
個人が社会の中で揉まれていく中において、生まれ、肥大化してきたものであると考えることができる。
そして、それはおそらく、
社会の発達とともに、私たち人間の、自然との等価交換の関係が崩れていることと無関係ではない。
私がここで「等価交換」という言葉を使うのは、インプットとアウトプットのバランスを意識しているからである。
ここで言うインプットは「情報を取り込むこと」であり、
アウトプットは「インプット情報に反応した結果、生み出されるもの」をイメージしている。
基本的に地球上の生物は、
自身の周囲を取り囲む自然環境から情報を受け取り(インプット)、そこで感じるままに生活(アウトプット)してきた。
これが私のイメージするインプットとアウトプットの等価交換であり、共生と循環、持続可能な自然の営みそのものである。
だが現代の人間社会は、
私たちを直接的に取り囲む環境そのものが大きく変化しているだけでなく、
昼も夜もなく、圧倒的な量の情報をシャワーのように浴びせられている。
先人が自然から受け取ってきたメッセージとは明らかに異質な大量の情報にさらされ続け、
そこに見合うだけのアウトプットもできていない。
このバランスの悪さが、私たちが抱えているストレスの大きな部分を占めているのではないか。
ビルに囲まれ、24時間、ネットに繋がれているだけでも大変なのに、
心と体に起きている複雑な反応を無理やり抑え込むばかりで、
私たちは、インプットとアウトプットを適切にコントロールする方法を見つけることができないでいる。
先人から引き継いできた今の私たちの心と体では、
現代のような激しい変化にスムーズに適応するのは無理であろう。
社会が発達することにより、
私たち人間が自然から切り離されていくのは、ある意味、自然な流れである。
現代人はこの流れの中でかつてないストレスを感じ、ところどころに不具合を起こしているが、
私は、それが良いとか悪いとか、望ましいとか望ましくないなどと考える以前に、
私たちの心と体が、変化の速度についていけていないことに着目している。
私たち人間の環境への適応速度と、地球環境の変化の速度。
この両者のズレが引き起こしている一過性の現象に過ぎないのではないかとも思うのだ。
最終的に自然から切り離されていくにしても、
それこそ何億年単位の視点で眺めてみれば、どんな環境の変化であれ、心と体はアジャストしていくのかもしれない。
地球環境がどうであろうが、最終的にアジャストできているのであれば、
どんなに温暖化が進み災害が多発しても、それが悪いことだとは思わないだろう。
もちろん私たちには、数十年、数百年後の子孫に何を引き継ぐかということも引き受けていく使命、責務がある。
だが、目の前で起きている地球環境の変化は、今の私たちの常識に照らすと都合が悪いと思うだけで、
もっと大きな視点に立てば、何がどうなろうが良くも悪くもないのではないかと、そうも思うのだ。
人間が自然から生まれたものである以上、自然から切り離されて生きることはできないという見方もあるが、
それも一つの仮説に過ぎない。
地球環境がどうなろうが、最終的に生物は環境に適応するということも考えられる。
もちろん、適応できればいいというものでもない。
元々いいも悪いも無いのだが。
ここらへんもややこしいところだ。
仮説を挙げ始めたらキリがない。
おそらくそれぞれに可能性があり、どこかに一つだけ正解があり、それ以外は間違いというものでもない。
私たちが感じているストレスの原因を、近現代における環境汚染、破壊活動と結びつける向きが強いが、
人間が生まれ、繁殖してきた環境もたまたま人間にとって都合の良い環境だったというだけで、
それが望ましいものであったと考えるのは、人間の都合からの一つの思い込みに過ぎない。
見方を変えれば、人間が増えるような地球環境は、別の生物からみれば都合の悪い環境であったとも言える。
地球上の生物は、
私たちから見て望ましくないと思う環境にもすんなり適応していく可能性があると思う。
適応できさえすれば良いというものでもないが、
良いとか悪いとか、望むとか望ましくないとか以前に、
今は、私たちの心と体が、急激な環境の変化に追いついていないだけとも思うのだ。
この歪みは、
元々は人間にも備わっていた自然からのメッセージを受け取る力を後退させ、
悲観的な情報や同調圧力に取り込まれたりするうちに、
個人としての心と体が正常に機能できなくなったりすることにあらわれていると思う。
少し見方を変えれば、
私たち現代人は、自然から切り離された世界の中で生きることを「試し始めた」世代ととらえることもできる。
これは相当の苦痛を伴うが、
この苦痛の中で人生をまっとうすることが、私たちに課せられた使命のようにも思うのだ。
この苦痛の中で、私たちは膨張する自己承認欲求にも直面している。
一人ひとりが、こことどう向き合うのかが問われている。
そこに飲まれてしまうのか、
それとも、これも一つの現象としてとらえ、トータルで物事を受けとめる力を獲得していくのか。
自然から切り離されるのはとても寂しいことだ。
だから何かにすがりたくなる。
社会に階層があるのには理由がある。
権力や権威にすがることにより、
自由を手放すことと引き換えに、面倒なことを考える必要がなくなる。
これが支配の構図。
大部分は支配下におかれることになる。
だが、その中にあっても、かつて自然と対等な関係にあった「自己」は厳然と存在している。
抑制の強い今のような社会の中で自己を抑え込もうとしても、完全に抑え込むことは不可能だろう。
自己をどう扱ったらよいか。
これが現代人に突きつけられているテーマなのではないか。
自己をコントロールできなくなり、収集がつかなくなることもある。
暴力的に肥大化する自己に飲み込まれてしまっている人も少なくない。
だが、現状を冷静に見つめ、心と体の反応を自然現象の一つとして受けとめることによって、
自己はだいたいにおいてコントロール可能だと、私はそう思っている。
私が27年勤めてきた公務員を早期退職したことには、そこへの挑戦の意味も含まれている。
階層社会に縛られない自己。
承認欲求に振り回されない自己。
こうしたものと向き合いながら生きるのが、私に課せられた使命なのだと思っている。