ブログにせよ、YouTubeにせよ、書けば書くほど、話せば話すほどややこしくなるところがある。
考えていることを全て正確に文字や言葉にすることは不可能であり、
読み手、聞き手の受けとめ方もそれぞれで、やればやるほど面倒に感じることも少なくない。
こうしたことは多くの人が日頃から感じていることで、
あまりにも面倒なのでほとんどの人は表現することを諦めている。
だが、本当は何かしら表現したいという思いを持っている人は多い。
人知れず、言葉以外の音楽や絵画、彫刻などに没頭している人がいれば、
派手なことをして世間の注目を集めることで満足感を獲得しようと考える人もいる。
方法はそれこそ無限にあるが、
ほとんどの人はあまり表現していない。
表現することを我慢し続けて、
死ぬ間際になって後悔する人が多いと聞く。
みな表現者に憧れるが、
表現者は自らの表現活動に満足しているのだろうか。
これは考え方や解釈の仕方で判断が分かれるところだが、
一般的な感覚で言えば、表現することで満足できている人はあまりいないと思う。
どうしてもそこには不全感が漂う。
まず、全てを的確に表現することは不可能。
そして成功者であろうがなかろうが、誤解、嫉妬され、
ほぼ例外なく自身の能力の限界、壁にもぶち当たる。
けしてラクなものではない。
だが、おそらく、
この苦しみがあるからこそ、表現し続けたいと思うのではないか。
受けた誤解を修整したいとか、もっとスキルを上げたいとか、
そういうことよりも、
誤解されることをも引き受け、人としての様々な感情を多面的に味わったり、
想像力を刺激し続けることにより、その世界をより重層的で成長性のあるものに育てたり、
作り上げてきたものを土台にさらに挑戦を続け、自身や未来の可能性を拡げていくことなどを楽しんでいる。
なんとなく、そんな気がする。
こうしたことを味わい尽くしたら、「もういつ死んでもいい。」みたいに思うかもしれない。
今の私は、
自分の気持ちを圧し殺し続けることに限界を感じ、
長年勤めてきた公務員を早期退職して好きなことをしている。
好きな時に好きなことをしながら、
その時思いついたやり方でアウトプット、表現することを躊躇わないでいようと思っている。
私の場合、心に渦巻くものが常にあるが、
表現することが目的ではないことははっきりしている。
なんのために表現しようと思うのかについても、うっすらと見え始めている。
表現することの目的は人によって違う。
例えば、
人目を気にするタイプと、まったく気にしないタイプがいる。
話したり書いたりしていると、生意気だと言われたり、嫉妬されたり、叩かれたりする。
色々と面倒くさいが、こうしたものを引き受けながら表現し続けていくのがけっこう楽しかったりする。
そう考えると、私は人目を気にするタイプなのかもしれない。
だが人の評価が一番大事とは思っていない。
思っていることを自分の外側に出してみることで、
その過程だけでも自己完結的な気づきがある。
この気づきを求めて話したり書いたりしている。
私の始まりは間違いなくそこにある。
だが、そうこうしているうちに、
徐々に他者の反応をも引き受け始めている自分がいることにも気づく。
他者の反応は本当に様々である。
温かい心に触れ、励まされることもあるが、
どちらかと言うと、冷たく辛く感じるものが多い。
それこそ心が折れそうになることも少なくないが、
そこには良いも悪いもない。
目の前には常にたくさんの事実、現実が横たわっていて、
それらは私の心を時に激しく揺さぶる。
だが、それらをどう受けとめ、処理するかは全て自分しだいだ。
まるで二酸化炭素を高品質のエネルギーに転換するかのように、
かつて処理の難しかった生ゴミのような気持ちを推進力に変えていくのが面白くて、
今の私は、次々と新しい現実を受けとめることに喜びを感じている。
表現することにより、新たな現実にぶち当たり、
激しく揺さぶられながらも心は満たされ、感情に翻弄はされず、一歩一歩新しい景色を楽しむ。
不全感の中、日々挑戦し続けるのが楽しい。