ある祈りの儀式に参加してきた。

祈りそのものは、

どこでも、一人でもできるが、

土地土地の文化から学ぶべきことも少なくない。

私の場合は、

道東のある町でたまたまある方と縁があり、7年ほど色々とお世話になってきた。

普通なら体験できないようなことをいくつも体験させていただいてきた。

おかげで以前に比べ視野が拡がり、私なりに成長することができた。

様々なきっかけを与えてくれた恩を忘れることはない。感謝の気持ちはなくならない。

だが、互いの関係性は変化している。

この7年の間に、それぞれの事情も方向性も変化している。

だから関係性も当然変わっていく。

わざわざ言わなくても当たり前のことである。

だが人というのは、一般に変化を怖がる性質がある。

結びつきを実感した瞬間、自身の中に湧き上がった感情を勘違いし、

無意識のうちに、

互いにそれぞれ都合のよい世界に相手をも閉じ込めようとしたりもする。

よくある、共依存ってやつである。

だが、

怖がろうが怖がらまいが、

どんなにごまかそうとしても、変化は起きている。

変化があるからこそ人は成長できるわけだが、

変化の性質によっては、どうしても受け入れることができないこともあったりする。

そうした時、

互いにリスペクトしていても、

見た目の関係性は崩れやすくなる。

そして、そこに痛みを感じることもある。

痛みがあるのは当たり前だが、

痛みを怖がりすぎるあまり、

無視したり、屁理屈をこねくり回したりする人もいる。

それはそれで良くも悪くもない。

私は今回も観察している。

何が起きているかは、人それぞれ受けとめ方は違う。

私には私の受けとめがある。

人の考え方にもそれぞれクセがある。

特に幼少期に受けてきたことの影響は大きい。

あたかもそれがこの世の全てで真実であるかのように思い込み、他者との見え方の違いに気づかなかったり、

本当は気づいていても、どうしても修整ができない場合もある。

私も自分のクセを自覚している。気づいていないクセもたくさんあると思っている。

その上で生きている。

どんなクセだろうと良くも悪くもない。

どのクセにも、原因や理由がある。

それを探るのはとても面白いし、

自分や他人がそれぞれの人生の中で何を修めるために生まれてきたのか、なんとなく見えてきたりもする。

私も他人もたまたま今の肉体に魂を宿しているだけであり、

死んだら元の宇宙と言うか、ワンネスに還っていく。

私は、

自分や自分以外のそれぞれの肉体に宿す魂の揺らぎに関心がある。

寂しさや自信のなさに振り回されている魂もある。

不安な魂ほど声が大きかったり、

綺羅びやかなものの陰にその身を隠していたりする。

こうしたことは大昔から指摘されてきたことだが、

寂しさや自信のなさに翻弄され続けている魂は、

自分のことだけでいっぱいになりやすいように見える。

変化を怖れ、

身の回りのもの全てを自分に都合のいいものに仕立てげることに血眼になる。

変化は人生のチャンスだが、そのようには見えていないようだ。

私は、感情の波に激しく揺られている魂との縁が比較的多い気がしている。

縁のあった全ての魂の幸せを祈る。

私にとっての祈りとは、そういうものである。