私に話が振られてきたので、その時思っていることを話すと、
「偉そうなことを言う前にソースを出せ。」などと突っかってくる人がいる。
いつであれ私は、自分で思っていることしか話さない。
どこかで聞いてきた話や本の中で見つけたことなど、
そうしたものは私の口から話すことではないと思っている。
ソースがどこかと言えば、それは私だ。
当たり前の話だ。
だが御仁は、私の話に納得がいかないらしい。
「それでは根拠にならないから、説として認められない。」などと言い出す。
私は別に、私の名義で権威じみたものを世に打ち出そうとしているのではない。
意見を聞かれたから、思っていることを話している。それだけのことだ。
さらにこの御仁は、
「平凡な一般人が何かを語るには、その根拠となるものを提示する必要がある。」と、説教までしてくる。
面倒くさいが、こうした人も珍しくはない。
よくも悪くもなく、腹も立たない。
だが、そのような考え方の人の話は、
どんなに良い話でも、私の中に沁み込んではこない。
「どうせどこかからの受け売りでしかないのだろう。」などと思ってしまう。
話し手の顔の見えてこない話ほどつまらないものはない。
どこかの偉いさんの話や、本に書いてあることなど、いくら聴かされても、正直どうでもいいと思っている。
自分の中に浮かんでいるものを、
自分の言葉で、自分の責任で話す人にしか、私は興味が湧いてこない。
権威に寄りかかったような話は、
元々知ってるか、わざわざ教えてもらわずとも当たり前に感じる話がほとんどであり、
新しい有益な刺激になることはまずない。
受け売り話をあまりたくさん押しつけられてしまうと、
私の思想や発言が押し売りされてきた話と結びつけられ、勝手に引用したとか言われかねない。
だから余計に話を聴きたくなくなる。
聴けば聴くほど不自由になるのはゴメンなのである。
だが、こうした人はけっこういる。
人を支配下に置き続けるための手段の一つであると見ることもできる。
それはそれで眺めておくのも学びになる。
おそらくこの御仁は、私という人間の性質を見誤っているのではないか。
上から目線で圧力をかけ続けていけば私を支配できると思っているのかもしれない。
こう書くと御仁をディスっているみたいだが、
私にはそんなつもりはない。
時間を共有する価値がないと思えば、関わらなければよい。
陰で悪口を言うくらいなら、そうなる前に距離を取る。
誰かの悪口を言う動機もヒマも私にはない。
何かしらのブラスになることがあると思えば、どんなに遠くても私は会いに行く。
わざわざ会いに行くということは、私の中にリスペクトがあるということだ。
関係性に価値があると思うなら、私は時間も金も惜しまない。
とても感謝しているし、
受けてきた恩に報いるつもりでもいる。
だが、だからと言って無条件に御仁を崇め奉ったり、従属したりはしない。
素晴らしいことは素晴らしいと思うし、合わないところは合わない。
しごく当たり前のことである。
誰かと比べて偉いとか、優れているとか、そんな風に思ってもいない。
私は、御仁だけでなく誰からも支配されるつもりはない。
基本的に、人間関係は対等でなければ相手に失礼だと私は思っている。
今の私は人生の修行を楽しんでいるところであり、
これからも自分を鍛え上げていこうと思っている。