先日、隣町の某公園を散歩していたらいきなり声をかけられた。

私は木陰に潜む野鳥やリスなどを目で追っていたので、近く人がいることに気づかず少しギョッとした。

声をかけてきたのは、おそらく80歳を過ぎたガッシリ体型の男性。面識はない。

私がキョトンとしていると、その男性は「あんた知ってるかい?」と、いきなり語り始めた。

かつてこの辺りは鬱蒼とした原生林が生い茂り、開拓者は大変な苦労を重ねてきた、と。

そして当時の開拓団のリーダーの名前を挙げ、

その人物がこの町の礎を築き、現在に至るのだと。

さらに、

今の自分は年を取ったので取り立てて何もしていないが、この町の名士の血筋を引いており、一目置かれる存在なのだと言う。

だいたいこんな話であった。

この老人は最後まで話すと、誇らしげに笑みを浮かべていた。

私はこの老人の話にはほとんど興味が湧かなかった。

人間性にも魅力を感じることはなかった。

ただ、この老人が普段どんな気持ちでいるのかには関心を持った。

だから時々相槌を打ちながら、最後まで話を聞いていたのだが、

私は、この老人はひどく寂しいのだと思った。

おそらく誰も話を聞いてくれる人がいないのだろう。

誰も自分のことを認めてくれない。

そうも思っているようであった。

たぶん、こうして自慢話をしないではいられないのだ。

いい年をしてみっともないと笑うのは簡単である。

だが、この老人にも私の知らない歴史がある。

今こうして、私に向かって唐突な自慢話を始めるのも、この老人なりの理由があるのだろう。

人間は感情に振り回されながら生きている。

若い頃は感情を制御できても、

年を取れば、今まで我慢してきた分だけ我慢が難しくなることもあるのではないか。

おそらくこれは我慢強さの問題ではない。

どうしても我慢できないこともきっとあるのだ。

我慢できるとしても、それは一時的なことであり、

若い頃は時間があるので平気だが、

我慢したまま死ぬのは無理なこともあるのだろう。

私は今52歳だが、

30年後にこの老人と同じようなことを絶対にしないと言い切れるだろうか。

今でこそ比較的自由にしているが、

公務員を早期退職せず定年まで務めていたら、高い確率でモヤモヤを抱えた老人になっていたと思う。

そうならないように今から自己表現を心がけているわけだが、

今の調子でやっていっても、

死ぬまでにスッキリできているかはわからない。

そう考えると、

これは私だけでなく、現代に生きる全ての人に課せられた課題のようにも思えてくる。

若い人も含めて。

今の社会は、権威のある者、専門家などにしか発言権が与えられていないと思うことがある。

特に若い頃は、どんなに実力があっても思うように表現できるのは稀である。

表向きは誰にも等しく表現の自由があるなどと言うが、

実際にはそんなことはない。

幼少期から親や先生の言うことを大人しく聞くようにしつけられ、自発的に喋ったり行動したりすることはかなり制限されている。

それが悪いことだと言いたいのではない。

今は昔に比べて人の数が多い。

その時々に合わせた社会システムは必要であり、みんながその枠からはみ出していたら収拾がつかなくなる。

だから、特に子どもは知識も経験もないからという理由で、大人から色んなことを押しつけられており、

成人して社会に出ても、まだ知識と経験が足りていないとされ、やはり年長者からの押しつけの中に置かれている。

つまり大半の人は、思っていること、やりたいことを抑圧しながら生きている。

この老人も抑圧の中で生きてきたに違いない。

その反動が、何十年経ってもこの老人を支配し続けている。そんな気がするのだ。

この老人に限ったことではなく、現代社会にはこうした抑圧の連鎖があると思う。

いいとか悪いとかは別として、

こうした文化が世代を越えて引き継がれているということを認識しておく必要がある。

私は、

これからの時代はこの窮屈な循環から徐々に脱却し、個人がもっと自由になっていくべきだと思っている。

古代人は自らを取り囲む自然環境と等価交換の生活の中で心身のバランスが取れていた。

当然、今の私たちの心と体も、長く繰り返されてきた古代人の生活にマッチした作りになっている。

産業や科学の発達による急激な環境の変化に、

私たちの心と体が戸惑うのは当たり前のことである。

今は人の数が増え、社会が急激に肥大化し、

個人の自由を制限することが当たり前になっている。

現代人は自然環境から切り離され、

大量の情報の渦の中、互いに強く牽制し合い、

個人が自由に自己を表現することは難しくなっている。

だが表現することは本来特別なことではない。

人間以外の動植物は、

この世に生を受け、存在している時点で同時に自己を表現している。

表現しようと思ってしているのではない。

それは、存在していることと元々同じことなのだ。

人間も元々そうであった。

自然環境から受け取るインプット情報に見合った分だけ、アウトプット(生活、主張)していた。

そこでほぼ完全にバランスが取れていた。

だが、今の社会は表現することに価値の有無や優劣の概念が持ち込まれ、

個人が当たり前の表現をすることが、あたかも特別なことのようにされてしまっている。

結果として、

現代人は大量のインプット情報にさらされながら、思うようにアウトプットできないという、著しくバランスを欠いた生活を強いられている。

この構図は、

権力者が大衆を支配しようとする時には都合がいい。

大部分の人は、大量の情報の中で為す術もなく立ち尽くし、「私は上手くないから。」と新しい挑戦を避ける。

挑戦しないから個人には新しい力が身につかない。

権力者は安泰でいられるわけだが、

大多数の個人の自由は損なわれていく。

これが現実で当たり前だと思っている人も少なくないが、

なんとなく違和感を覚えている人もいる。

おそらく、自己を抑圧したまま乗り切ろうとしても、最後には自己矛盾を起こしてしまうのではないか。

社会システムを敵視したり、ぶち壊そうと意気込むのはどうかと思うが、

この世に生まれてきた以上、個人の尊厳について最低限の意識は持っておくべきと思う。

誰もが自己表現し、互いに認め合う社会がいずれやってくると思っている。