昨夜、ある知人と長電話をした。

15歳年下の彼は、私のブログを見て半年ぶりに話をしたくなったらしい。

とても嬉しい。

独り言のつもりで始めたブログだが、

見てくれるだけでなく、彼のように感想を聞かせてくれる人もいる。

彼は、

「自分に正直に表現したいが、簡単ではない。」と言った。若い頃に辛い思いを経験したことが引っ掛かっているらしい。

以前の私は他者を刺激することを避け、自分の気持ちを表に出さないでいたが、

今は正直な思いを割とストレートに書いている。

そのため、私のブログを読んで複雑な気持ちになっている人もいると思う。

これは、おそらく年齢も関係している。

生きていれば嬉しいことや楽しいことだけでなく、辛くて悔しいこともある。

どんなに表面上は大人しくしていても、心の中ではたくさんの複雑な感情が渦巻いている。

これまで感情を徹底的に抑え込んできたが、

今の私は、それらを自分の中で消化した上で、躊躇わずに話したり書いたりしている。

何故そうしているのかと言うと、

自分で自分をきちんと見てあげる必要性を感じているからである。

本当は子どものうちにやっておくべきことなのだが、私の場合、自分を圧し殺してここまで生きてきた。

圧し殺し続けて、そのまま死んでいくものと思ってきたが、

ここにきて、そうはならないような気がしてきたのだ。

どんなにごまかしても圧し殺しても、自分はそこに居る。

このまま逃げ切れるものでもなく、遅ればせながら50歳を過ぎた今になって自分と向き合っている。

自分を圧し殺し続けていると、

他者の視線ばかりが気になり、自分そのものがわからなくなっていく。

ごまかしたり抑えつけることができているうちは表向き平静を保っていられるが、

抑えつけてきた感情が噴き出してくることがないとも言い切れない。

その時、自分自身の扱い方を知らないと大変なことになる。

何もかも抑えつけてばかりいたわけではないが、

私の場合、もっと自分の心を解放することが必要だと感じている。

だがこれは勇気の要ることである。

他者が私を見る目や人間関係も変わっていくだろう。

「自分のことなんか後でいい。自分さえ我慢すればいい。」

今までの私はそう考えてきたし、これからもそうすることは簡単だが、

それでは前進できない。

冷静に考えて、今までの自分が傷ついてきたのであれば、そこはしっかりケアする必要があるのだ。

殻を破っていかないことには問題が先送りされるだけで何も始まらない。

特に意識していないのだが、独り言のつもりで始めたブログに正直な気持ちを少しずつ乗せていくうちに、

徐々に自分自身と向き合うことができるようになってきた。

感情をごまかしたり否定するのではなく、ごく自然なこととして受け入れていく。

そして、やはり少しずつ、

それらを他者に見てもらうことによって、自分だけでなく他者の様々な思いをも引き受けていく。

そこには責任がある。

責任を負うのと同時に、自信が身についていく。

自分優先は悪いことではないが、

その過程で他者を粗末に扱ってしまっては自信には繋がらない。

私なりに責任も感じている。

私は何度か母のことも書いてきた。

私の母は毒母である。

だが、私を産んでくれたことに心から感謝している。

辛く悲しいこともあったが、

今の私はそれらを糧に生きていこうと思っている。

揺るぎない母へのリスペクトが今の私の中にある。

だからこそ母のことを「毒親」と書くこともできる。

かつての私は書けなかった。

母のことを恨んでいたから、書けなかった。

だが、長年抑えつけてきた母への思いと向き合うことによって、

私の心は自由を獲得した。

この母への思いを起点に、私の心はさらに自由へ向かうような気がしている。

不自由を知っているからこそ、自由を味わうこともできる。

早期退職してからの私は、色んなことが音を立てて変化している。

正直な思いを表現し続けることによって、

周囲の目、人間関係も変わり、自分の居場所そのものも変化している。

私の根っこは変わりない。

今、私の周りで起きている変化は、

私の根っこに合わせた必要な再配置なのだと受けとめている。

だから今の私は、正直に表現することを躊躇わない。

これまでの全ての縁にリスペクトしている。

おそらく理解されないこともあるだろうが、

迷いはない。

昨日の知人との電話では本当に色んなことを話したが、私が肝と感じたのはだいたいそんな話。

他にも面白い話がたくさん出てきたので、また書こうと思う。