昨日の昼過ぎに保健所に行ってきた。
先月私は、コロナに感染し10日間入院したが、
その時の医療費の自己負担額を確定するための書類(世帯全員の住民票、課税証明書等)を提出してきた。
書類を渡すだけのつもりだったのだが、担当の人が出てきてくれたのでその場の流れで少しだけ話をしてきた。
私「既感染者はワクチンをどう考えたらいいか。」
担「あなたが感染したのは時期的にイギリス変異株の可能性が高い。
個人差があるが、一般に既感染者の体内には半年から1年程度は抗体があることが多い。
だが、抗体があってもウィルスに対して十分な防御力を有していない場合もあるため、
保健所としては、
既感染者についてもワクチン接種(通常2回接種のところ、既感染もは1回)が望ましいと考えている。」
私「既感染者がワクチンを接種した場合、副反応が強く表れることもあるのか。」
担「そうしたこともないとは言い切れない。いずれにしても納得してから接種を受けるべきであり、不安がある時はかかりつけ医と相談した上で判断して欲しい。」
だいたいこんなやり取りであった。
どれも当たり前のことなのだが、話ができて良かった。
私自身、かつて保健所で感染症対策を担当したことがある。
感染症の蔓延を抑止する観点からワクチンなどの必要性を訴えてきたが、
個人レベルではどうしても健康不安がつきまとう。
どんなに確率が低くても事故は現実に起きているのであり、
自分や家族の身にもいつ何が起こるかわからない。
私は5年前に当時19歳の二女を亡くした。
因果関係は不明だが、安易な気持ちで子宮頸がんワクチンを受けさせたことを後悔している。
コロナに限らず、ワクチン接種を希望する人の中には「確率的にたぶん大丈夫だろう。」という人も大勢いる。
それを悪いとまでは言わない。
だが、ワクチンの効果やリスクは人によって違う。
人種、性別、年齢、既往疾患の有無、当日の体調、仕事上の役割などにより、
一人ひとり判断は違ってくるはずだ。
国が進めているからとか、専門家が大丈夫と言っているからとか、
たしかに間違いではないのだが、
それらは感染症の蔓延を社会的に食い止めるという観点からの発言であり、
実際にワクチンを接種する個人レベルにおいては一般論だけで割り切れるものではない。
人によって体質や体調、社会的な役割などは千差万別であり、答えは一つではない。
私は、国の方針や専門家の発言だけでなく、一人ひとりが自分の頭で考えることこそが一番大切なことだと思っている。
考えた結果、ワクチンを打つ人も打たない人もいる。
それぞれの判断を尊重し合いたい。
立場や考え方の違いを互いに認め合う社会を望んでいる。
私のことをワクチン否定派だと思っている人もいると思うが、
私が主張したいことは、
ワクチンがいいとか悪いとか、そんなことではない。
そこは、いくら論争しても答えなど出てくるはずがない。
論争するだけ無駄であり、
貴重な時間とエネルギーを奪われ、個人的にも社会的にも気の流れが悪い方へ傾いてしまう。
社会の分断が進み、本質から、目指すべきあり方から遠ざかってしまう。
私の望みはただ一つ。
多様性を認め合う社会。
私たちの世界はどこまでも複雑であり、すっきり割り切れることなど一つもないのだから。
日本は医療費負担が少ないからだと思うのですが、病院へ行きすぎているし、医者の下す診断や薬もうのみにしていて、あまりにも受け身だと思います。予防接種もそうです。
調べるのにすごく苦労した昔と違って、今はインターネットで沢山調べられるし、英語が出来ればさらに情報量は増え、比較検討できる時代です。
薬は必ず副作用があるし、薬に頼らなくても、休養と食事で治る病気もある。
ワクチンで示される数字は何を母数にしてどう切り取るかによって、捉え方も変わる。その切り取り方や捉え方の判断を「国」や「専門家」任せにするのは、私は不安です。
我が子たちはHCVを打っていませんが、今の子供たちは生まれた段階で予防接種の予定表に組み込まれています。肝炎の予防接種もです。20年前にはなかったワクチン接種です。うちの娘たちが親になる日が来たら、しかるべき知識を持って判断するように伝えたいと思います。
子どもの頃から知識を押しつけられ、行動を制限され続けていると、自分の頭で考え、行動する力が削がれてしまう。今までの日本社会はそうした傾向が強かったと思いますが、これからの時代、人任せな生き方は通用しませんね。
気分が良くなってよかったです。