今朝も散歩している。近所の公園のあやめが一斉に咲き始めた。
去年に続きコロナで祭りが中止になっても、花は咲く。
しばし見とれていると、どこかざわついていた心が穏やかになっていく。
新しいことに挑戦していると、私の中にも様々な感情が湧いてくるが、
どれもとても小さなことだと思う。
小さなことだが、意味がないわけではない。無視してはいけないとも思う。
楽しいとか嬉しいとか心地よいとかと同じように、
苦しいとか、悔しさを感じるのにも理由がある。
そこに囚われ過ぎて抜け出せなくなるのはどうかと思うが、
無造作に素通りするのではなく、短時間でも自分の中の全ての感情と向き合っておきたいと思う。
花を見ると綺麗だ、嬉しいなと思うのは何故だろう。
よく考えたら不思議なことだと思う。
面白くない、悔しい、などと思うのも同様に不思議である。
綺麗だから、楽しいから、
危険だから、面白くないから、
そのように感じるのは何故なのか。
いくら考えても答えは出ないと思うが、ほんの少しだけ考えてみる。
答えを導き出すことが大事なのではないような気がしている。
答えは要らないが、意識しておいた方が面白いと思っているので時々考えている。
種の保存、進化のために必要なことなのかもしれない。
大昔のご先祖様から代々引き継いできた人間としてのこの肉体に、
様々な感情が湧いてくるシステムが組み込まれている。
これがどういうことなのか、時間をかけて考えようとは思わないが、
心の片隅にそうしたことを常に感じながら、今という大切な時間を感じていたいと思う。
私はそうした方が心地よいからそうしている。
52年生きてきて思うことがある。
その時の自分にとって心地よい居場所を選んで生きてきた。
知識と経験が増えると視野が広がる。
視野が広がれば、世の中には面白いことがたくさんあることに気づいていく。
夢中になって気がついたら自分の居場所が変化していたりする。
居場所が変われば周りにいる人も変わっていく。
ついこの前まではいつも一緒にいたのが、
いつの間にか遠く離れている人もいる。
かつて楽しかった時間は変わることがない。
その人への思いは変わらない。
だが、今の私は新しい世界を歩き始めている。
相手にも、その時その時の事情がある。
若い頃は別れを辛いと思うことがあった。
置いてけぼりを食らって面白くないとか、悔しいとか、そんな感情を上手く扱えなかったこともあるが、
今の私は別れを悲しいことだとは思っていない。
今の私は、
来る者拒まず、去る者追わず。
今がどうあろうが、縁のあった人やモノ全てに、常に変わらぬ気持ちで感謝している。
楽しかった時間はなくならないと書いたが、
実は私、過去は変えることができると思っている。
嫌な思い出を嫌なままではなく、作り変えることもできると思っている。
だが、時間はかかりそうである。
人間としての肉体を持っているうちは、
この肉体に刻まれた記憶の影響を受けながら生きていくしかない。
人間としての生の時間やエネルギーは有限であり、
人生の質を高めていこうと思えば、
心地よい時間と空間を選んで居場所を作っていくことがメインになる。
過去の解釈を変えることは、理論上は可能だと思うが、
そこに限られた時間とエネルギーを徹底的に注ぎ込もうとは、私は思わない。
私にも嫌な記憶はある。
時間に糸目をつけずに向き合っていけば、どれも解決できることばかりだが、
向き合おうとした時には、
刻まれた記憶と同時に、当時湧き上がってきた感情も突きつけられることになる。
そこで不快に感じたり苦しくなったりするのなら、
自分のためにも、相手のためにも、
そこから遠ざかるのは当然の反応だと思う。
だから、別れを自然なこととして受けとめている。
繰り返すが、別れても縁のあった人への思いは変わらない。
嫌いになったわけじゃない。
それぞれ前向きに違う道を歩き出しただけの話で、お互いにより豊かな人生を楽しんでいるのだと思っている。
花を見て綺麗だと思うことと一緒だと思う。