私は有名人ではない。毎日発信していてもブログ読者もYouTube視聴者もそんなに多くない。

「お前はなんのために書いたり話しているのか。」と聞かれることがある。

私にとって発信することは特別なことではなく、

書くことも話すことも、自然体で脱力したゼロポジションにいる感覚でしかない。

公務員時代の私は強い抑圧を感じていた。

思っていることを表現できないことに不自然さを覚えていた。

今の私はその抑圧から自分を解放している。それだけのことである。

自由になってみるとあらためて実感する。

自分の思っていることを表現し続けるのは特別なことではない。

書こうと思って書いてるわけではない。話そうと思って話しているのでもない。

気がついたら、書いたり話したりしている。

それだけのことである。

私は、

一人ひとりが自分の考えを表明し、他者と理解し合うことが私たち本来の姿だと思っている。

だがこの社会は、今も個人を抑圧し続けている。

環境にもよるが、私たちは、子どもの頃から自分の気持ちを圧し殺すように仕向けられてきた。

黙して語らないことがあたかも美徳のような空気に支配されているが、

本当にこのままでいいのだろうか。

未来のあり方として、

これからの人たちには自由に表現できる社会を目指していって欲しい。

私はそのように思っている。

そのために自分がなすべきことは、

私自身が自由になることだと思っている。

それぞれが自然体でいることを認め合う社会を引き寄せたい。

そのために、

脱力した状態の自分はどこに向かって動き出そうとしているのかボンヤリ眺めている。

ボンヤリしていたら、いつの間にかブログを書き、You Tubeで話していた。

そんな感じである。

人は変化を嫌い、同じ場所に安住することを好むと言うが、本当だろうか。

書いたり話したりしていると、昨日までとは違う意外な自分を発見することがある。

そこに気づくことはとても大切なことだと感じている。

これは自分だけでなく、誰の中にもあると思う。

私は、そうしたものを互いに大切にし合いたい。

文字や言葉を発することには一定の責任を伴う。

私たちは本来、子どもの頃から小さな責任を引き受け、他者との関わり合いの中で成長していく生き物である。

だが今の社会は、

教育と称し、支配者に都合のいい価値観を個人に押しつけ、

私たちは、子ども時分から小さな責任を負う機会を取り上げられてしまっている。

個人が自由に力を伸ばすことは制限され、

その抑圧が個人を無意識のうちに強く圧迫している。

明治の富国強兵や戦後の復興期には、ある意味においてこうした押しつけが有効に機能したところがあったかもしれない。

だが、今は違う。

今のこの社会は、目的を見失っているように映る。

であれば、私たちは変わっていくべきではないか。

いつまでも古い価値観に縛られている必要などないはずだ。

まずはゼロポジションを探し当てたい。

降り注いでくる情報があまりにも多すぎて、たくさんのことを押しつけられ、私たちは自分自身を見失っているところがある。

まず私たち一人ひとりが自然体であること。

思い込みや外圧にけしかけられるようにして思考停止状態で行動するのではなく、

一人ひとりが、自身の内なる声に耳を傾けるところから始めたい。

その上でそれぞれが素直に自身を表現し、他者との関わり合いの中でゆるりと高めあっていく。

自然体でいることで初めて成長が可能になる。

人としての成長は自然なことであり、特別な努力など不要である。

成長を自ら放棄するような不自然な生き方が、今の私たちに苦痛をもたらしている。

そのように私は感じている。

私はブログやYouTubeで社会的な正義正論を主張したいわけではない。

何か書いたり話したりすると、

「ソースを示せ。」とか、「どこの誰から聞いた話か。」とか、

すぐにそんなことを言ってくる人がいるが騙されてはいけない。

それは支配者が奴隷を黙らせる常套手段である。

自分が感じていることを、自分自身の責任において表明する。

当たり前のその歩みを止めてはいけないと思う。

それが仮に社会的に間違っていることだとしても、その時点では本人がそう感じているのだから、とりあえずはそれでいいのである。

それぞれの違いを確認し合い、将来の道筋を探るために書いたり話したりするのであり、

勝ち負けの問題ではないのだ。

私の発信の目的は言論以前のところにある。

自分たちの手元に、力みのない「自然な言葉」を取り戻したい。

どこにも力は入っておらず、呼吸をしているのと何ら変わらない。

アウトプットは特別なことじゃない。