仕事ができる人とはどんな人だろうか。

昨日、少し考えることがあった。

ある福祉事業所の所長が近々辞めるという話が耳に飛び込んできた。

この所長はいわゆる「できる人」風の人で、

事業所の運営全般に常に目を光らせており、一切においてぬかりがない。

創業者の志に深く感じ入り、

利用者への良質なサービス提供を徹底的に心がけ、

時には厳しい態度で部下に当たることもある。

とても一生懸命なのだが、

部下は、

常に所長から監視され、まるで試されているように感じているようでもあった。

いつまで経っても信頼してもらえない。仕事を任せてももらえない。

所長の考え方に沿わないやり方は片っ端から否定され、

部下はしだいに居心地や立場が悪くなり、

一人、二人、三人と職場を去っていく。

「仕事のできる」所長は、

かつて部下がしていた仕事をも抱え込み、

相変わらず強い使命感に燃え、日々奮闘していたはずなのだが、

近々その仕事を辞めるらしい。

私は噂話を聞いただけなので、その話に色をつけたり鵜呑みにしているわけではない。

だが、

私の公務員時代にも似たような話があった。

この所長のようなタイプの職員と一緒に仕事をしていた時期もある。

部下の中にも「自分はできる」と思っている職員が何人かいたが、

彼らの中には自己主張が強いだけでなく、ほかの職員にダメ出しを繰り返し、

結果としてチーム全体のパフォーマンスを低下させてしまうこともあった。

だが当の本人は全然平気で、

ほかの職員を踏み潰すことによって優越感に浸り、満足しているようである。

現場としては複雑なところなのだが、

彼らは組織上層部のご機嫌を取るのが得意で、人事の評価が高かったりする。

このような人はどこにでもいるので、あまり気にしていなかったのだが、

近年は徐々に増えている感じがしている。

中央省庁では政治主導が進み、官僚が振り回されていることによる弊害が指摘されているが、

地方行政でも似たような傾向が見られる。

行政の上層部は日和見主義者が多数を占め、

ライバルを蹴落とし、上層部のご機嫌を取る職員が目立つようになった。

彼らは口では立派なことを言うが、

組織を有効に機能させ、社会的な役割を果たすことよりも、己の自己承認欲求を満たすことを優先している。

こうした現実に何度かぶつかるうちに、やる気を削がれてきた経験が私にもある。

泣き言を言いたいわけではない。

個人的には自分のやりたいことをやるだけだ。

やりたいことができないと思うなら、できる環境に居場所を移せばいいのであり、その意味において何も不満はない。

だが、行政のあり方としてこのままでよいのかという思いはある。

今の行政が果たすべき役割は重大であり、内部で足を引っ張り合っている場合ではない。

現場はただでさえマンパワーが足りていない。

公共の利益を追求する立場であるならば、貴重な人的資源を有効に活用していかねばならない。

ところが今の行政組織は、

一部の我の強い職員の個人的な承認欲求を満たすため、たくさんの職員が使い倒され、踏み台にされてしまっている。

ライバルを蹴落とし、上層部に取り入ることに成功した職員は「自分は仕事ができる」と思っているようだが、

彼らの目的が、

無駄としか思えない消耗戦を延々と繰り返し、組織機能を低下させ、敗残者の上に君臨することであるならば、

公共の利益の追求などできるはずがない。

私たちは高い税金を預けているのである。

こういうことをいつまでも看過していてはいけないと思う。

終身雇用も年功序列もすでに過去の話。

弱肉強食、実力の世界に慣れていないせいか、不必要な緊張が社会に流れているように感じることがある。

「人に認められないと生きていけない。」

「他人よりもできる人として評価されないと死んでしまう。」

悲鳴のような声があちこちから聞こえてくるようだが、

この恐怖は幻想である。

実体がなく不必要な恐怖からは一刻も早く抜け出すべきである。

強い緊張に身を置くことで課題や問題が解決できるなら、

私たちの社会は今のようにはなっていない。

頑張っているふりは不必要なだけなく、

むしろ悪である。

気づいた人はすでに動き始めている。

遠くばかり見ていないで、

今を大切にしたい。

今を心豊かに、この一瞬を大切に生きていきたい。

そんな人が増えれば社会は自然に変わる。

抑圧から自由になり、無駄に消耗するサイクルから抜け出すことができれば、

力まなくとも、それぞれの仕事を認め合えるようになる。