DRで三笠市の達布山の辺りを散歩していたら、

古びた石碑が目に止まった。

「三笠開拓恩人合同の記念碑」と書かれている。

三笠は石炭が採れることもあり、いち早く開発の手が加えられてきた歴史がある。

原生林を切り拓き、道を作り、

氾濫を繰り返す川の流れを真っ直ぐにし、

農地をも作ってきた。

その大部分は、重罪犯や政治犯など囚人たちの労役によるものであった。

かつて、三笠市市来知には空知集治監、月形町には樺戸集治監が置かれていた。

この2つの集治監はたった20kmしか離れていない。

明治政府がいかにこの地域の開拓に力を入れていたかがうかがえる。

囚人たちは石炭の採掘や道路敷設など過酷な労働を強いられ、命を落とした者も大勢いた。

三笠市内の千人塚公園には1,158人の囚人が眠る合葬墓、月形にも1022人の囚人墓地があるが、

これらの墓とは別に、昭和38年にこの記念碑が建てられていたことを初めて知った。

記念碑は達布山旧登口にある。かつては毎年8月に例祭が行われていたらしい。

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三笠開拓恩人合同記念碑を離れ、道道三笠栗山線を岩見沢志文方面へ走る。

幾春別川を渡ってすぐ左手に、東屋の建つ公園がある。

公園の中に何かの碑柱が見えるのでここでもDRをとめてみた。

「三笠市萱野発祥の地」と書かれている。

裏に何か書かれている。

萱野地区の開拓はこの場所から始まったらしい。

そして今からちょうど20年前、三笠市開庁120周年を記念して公園化されていた。

園内には東屋が2棟あるが、どちらも屋根の一部が破損している。

この冬の大雪で壊れてしまったと思われるが、修理されるだろうか。

さらに三笠栗山線を4kmほど南下すると、右手の丘に宝水ワイナリーが見えてくる。

ワイナリーの手前にある古い立て看板が気になっていたので見てみた。

今は社も鳥居も跡形もないが、かつてここに神社があったようだ。

どの場所にも歴史がある。

何故、墓とは別に三笠開拓恩人記念碑が建てられたのか。

松並佐七郎という人はどんな人物だったのか。

宝水神社を大切に守ってきた人たちの思いとはどのようなものであったのか。