この世に裏切りは存在しない

私は人に裏切られたと思ったことがない。

それなりに酷い出来事に出食わしてきたが、今までもこれからも「裏切られた。」と思うことはない。

何故なら、見込み違いがあったとしたら、

それは文字どおり見込んだ側の見込み違いなのだ。

対象は変わってなどいない。

私も何度か噛みつかれたことがある。

今も噛みついてきてるのがいる(笑)

どちらかと言えば残念ではあるが、想定内のことでもあり屁とも思ってない。

ちっぽけな話であるが、

大切な人なので、あえて取り上げてみる。

噛みついてくるなら、こちらとしても頭に浮かぶことがある。

見込みが違ったからと、腹を立ててどうなると言うのか。

勝手に何を期待していたのか?

自分が何を期待していたのか振り返っても、何も気づくことはないのか?

今まで見込み違いをしていたのと同じように、新しい勘違いをしている可能性は頭に浮かんではこないのか?

怒ってる人が自発的に気づくべきことなので、尋ねませんけど。

当たり前のことだが、こちらは何一つとして変わっていない。

変わる理由がないし、変わりようがない。

人はそれぞれの事情で動いている。

勝手な思い込みをして、思いどおりにならないからと言って怒る人がいるが、

そんなことじゃ、何をしてもしなくても全然駄目だと思う。

良し悪しとか能力の問題ではない。

進歩を阻害する意味で、生きる姿勢として駄目だと思う。

関係とは依存することではない。

いつ何がどうなろうが、全てを受けとめる覚悟をするということである。

怒ると言うことは、覚悟がなかったと言うことである。

「信じていた。」などと言いながら、

信じる以前に何一つとしてその対象を理解していなかったことの証明である。

「信じていた。」と言うが、

それは自分にとって都合のいいイメージに他者を押し込めていただけとは思わないか。

それは信頼ではない。歪んだ依存である。

人はそれぞれ歪みを抱えている。

歪みがあることがわかっていても、無くせるものではない。

そもそも歪み自体は悪いことではない。

それぞれ置かれてきた環境の中での自然な反応として、そのまま受けとめるべきものであり、

無理やり蓋をしたり、他のことでごまかせるようなものではない。

苦しくて隠したくなる気持ちはよくわかる。

だが、恥じる必要などないのだ。

恥じるのは誤った刷り込みに支配されているからだ。

幼少期の家庭環境から強い影響を受けたことによる、感じ方のクセ、非常に個人的な思い込みに過ぎない。

強制はしないが、すぐにでもこのことに気づくべきだ。

でないと、その小さな心があまりに可哀想ではないか。

外壁を強く、大きく、綺羅びやかなものにすればするほど、

その内側に置き去りにされてしまっている心が可哀想ではないか。

私としては、その心を隠そうとする外壁を見ていられないのだ。

私にはその派手な外壁の内側にいる心が見えている。

私にしか見えていない可能性がある。

だから柄にもなく余計なお節介をしている。

私は、外壁を押しつけられるのが耐えられないと言った。

私には無理だからだ。

自分の都合で無理なのだ。

だが、本当に自分だけの都合だと思うか。

私があの時に見ていた、小さなあの目を裏切ることはない。

あの目は私の一部だ。

歪みの中で感情の嵐の中でどんなにのたうち回っても、

私があの目を忘れることはない。

だが、当人が外壁に生きると言うなら、それでいい。

その場合、お互いの間には距離が必要だ。

嫌われた方が手っ取り早いこともある。

割り切ってそれぞれの道を歩いた方がよい。

繰り返すが、向き合いたくないなら向き合わなくてもよい。

長々と書いたが、別にどうでもいい。

今はお互いに事情がある。色々なことに囚われてぎくしゃくしているが、

いずれお互いに全部気づくことになるのだから。

私は、時々運命に引っ張られるようにして寄り道しながら、私の道を行くだけだ。

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