東日本大震災から今日で10年になるが、あの時のことは今も鮮明に覚えている。

岩見沢もかなり揺れた。

激しい揺れがきた時、私は、

長女の中学校の卒業式が終わり、歩いて数分の家へ帰るところであった。

揺れが強いだけでなく、やたらと長い。

普通の地震ではないことは明らかで、

急いで家に駆け込みテレビをつけていると、

ほどなくして、想像をはるかに絶する巨大な津波の映像が映り始める。

まさかこんなことになろうとは。

私は、茫然とニュース映像を眺めていた。

にわかには信じられず、

なかなか事態を飲み込めないでいた。

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震災から50日後、縁があって私はバイクで三陸の津波被災地に入ることになる。

もちろん遊びではない。

公的な役割を担い、バイクの後ろに人を乗せ、

釜石から石巻までの、主に海岸沿いの避難所やボランティアセンターなどを訪問するのだ。

釜石でチームと合流するため、

私はトランザルプ400で岩見沢を出発。苫小牧からフェリーに乗り込んだ。

普段であればフェリーは八戸港に向かうのだが、

当時、三陸の港はどこも使える状況にはなく、フェリーは青森港に着いた。

フェリーを下船すると、外は冷たい雨が降っている。

寒さに震えながら、トランザルプとともに青森から花巻まで東北道を南下し、

花巻からは遠野経由で釜石へ向かう。

海が近づくにつれ周囲に瓦礫が目立ち始め、

自衛隊や支援物資を運ぶ車両とともに、緊張しながら釜石の中心部に滑り込む。

瓦礫の山は私の身長の何倍もの高さに積み重なり、想像したこともない光景が広がっている。

事態を頭で処理しきれないまま、

瓦礫の中を縫うようにして、釜石郵便局の近くの約束の場所にたどり着いた。

そこからはもう、無我夢中であった。

雨の中、後ろに人を乗せて瓦礫の散乱する被災地をバイクで走る。

今まで感じたことのない緊張。

ここでは細かいことには触れないが、

写真を少し。

釜石市内の瓦礫。

釜石市内の瓦礫撤去作業。

過去の津波を伝える碑文。

平田の防潮堤が崩れていた。

大船渡のマイヤ店舗。

大船渡駅周辺。

大船渡市盛駅前のボラセン。

小友地区に広がる瓦礫の海。

小友から陸前高田へ向かう。

陸前高田の雇用促進住宅。最上階まで津波が達している。

かつてプロ野球の試合も行われた陸前高田球場。

重機による瓦礫撤去作業。

地盤沈下のため水が引かない。

陸前高田広田地区の避難所。

陸前高田市矢作地区のガソリンスタンド。電気が戻らないため手動汲み上げで給油。

気仙沼市鹿折地区。まるで空爆を受けたよう。

同じく鹿折地区。海岸線から500m内陸に打ち上げられた第十八共徳丸。

気仙沼港。漁船が黒焦げ。

気仙沼も地盤沈下で水が引かない。

今も震災遺構として残る気仙沼向洋高校舎。

津波で破壊された小泉大橋。

南三陸町志津川のボラセン。

貼り紙でびっしり。

志津川の避難所。

南三陸の防災対策庁舎。震災遺構として保存される見込み。

南三陸の海岸線。

高台にある保育所が避難所になっていた。

墓地。

閖上にある日和山の慰霊碑。

釜石から仙台まで走行距離約200km。

今、同じことをやれと言われても無理である。

10年前は私も若かったと思う。

当時の三陸海岸はどこも瓦礫が散乱したままであり、

バイクの機動性が有効であったのは間違いない。

あの時に見たこと、聞いたこと、考えたことは、一生忘れることはない。

私は今もバイクでの三陸なぞりを繰り返している。

今年も行くつもりでいる。