揚げ足を取られることを怖れるあまり、自分の言葉で語るのを躊躇ったり、自分がよいと思う意見にも同調しずらいと感じている人は多い。

だが、

ブログを書いていると、他のブロガーの記事も次々と目に飛び込んできて、

自分の言葉で発信する人が増えているのがわかる。

これから確実によくなっていく直感がある。

今の社会全体としては、

何かしら批難の対象を見つけ、よってたかって延々と叩き続ける人が目立っている。

この手法は構図がわかりやすく、

短期的にたくさんの同意を得て、発信者としての承認欲求を安易に満たすことができる。

だがここには落とし穴がある。

とりあえず目立つというのが目的となり、その後への影響や結果に責任を持つ視点を忘れてしまうことがある。

そうなるとどんなにいい事を言っていても、

結局はただの悪循環、閉塞感を強化することにしかならない。

世知辛い世の中、肥大化する承認欲求に溺れ、

手段を選ばずにとりあえずマウントを取りにいく人が溢れている。

何かを叩き続けることが発信者のあるべき姿と思い込んでいる人も多いが、

水面下では、それとは違う動きも始まっている。

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現実世界は非常に複雑である。

物事は単純ではない。

なんでもかんでも単純化したり、敵と味方に分けて考えるのは、そもそも現実的ではなく、いずれ立ち行かなくなる。

どうにもこうにも割り切れないことばかり。

まずはこの現実を受けとめたい。

そして、そこのところをより広く共有したい。

そうした思いの滲むブロガーに出会うことも増えている。

だが、割り切れないことがあるというのは、多くの人にとっては不安なことなのだろう。

だから無理矢理割り切ろうとしたり単純化しようとするのだが、

そこに真実はないと思う。

今は人間だけが現実を見失っているようにも見える。

人間以外の動植物は、あるがままをそのまま受けとめている。

人間もそこが起点となっていたはずだが、現代人はそこから離れてしまっている。

本質を見つめ直せば、基本を取り戻すだけのことであり、なにも難しいことではない。

物事を単純化することに囚われている人を利用、洗脳してマウントを取りにいく人がいるが、

そんなものに振り回されないことである。

わからないことはまずいことなんかじゃない。

わかっている人が偉くて、わかっていない人が劣っていると考えること自体、どうかしている。

何事も自分の頭で考え、疑問を持つべきである。

そもそも、わかっているとされている人は本当にわかっているのか。

わかっているとされている人の存在が本当に有益なら、

今のような分断された世の中にはなっていないのではないか。

私はフェイクニュースが嫌いではない。

フェイクニュースの出し手にも何らかの事情がある。

意図的であれ、勘違いであれ、そこには事情がある。

勘違いするのにも事情がある。勘違いが起きていることも事実であり、紛れもない真実なのである。

だから、

起きていることをそのまま受けとめ、そこに正誤や優劣などは持ち込まない。

これこそが、多様性を認め合う発想の起点ではないだろうか。

多様性を認め合うことの重要性を訴え続けている有識者が、

精力的に行動すればするほど、結果的に社会の分断を決定づけることになっていたりする。

どんなにいい事を考えていても、

理解できない者を置き去りにしたり、

考え方の違う者を突き放しているとしたら、

そこに矛盾があるとは思わないだろうか。

人知れず淡々と現実を見つめ、今とこれからを作り出していこうとする人が増えている。

私は楽観している。

ブログには悲観的と受けとめられることも書いたりするが、

書いてる時も楽観している。

楽観しているからこそ書ける。

楽観している方がずっと楽しく、良いものと引き寄せ合えている実感もあるので、気がついたらほとんどの時間は楽観している。