オリンピックを巡り、様々な意見が飛び交っている。

意見を闘わせるのはいいことだが、

不信と憎しみが渦巻いているように見える。

なんのためにそんなことをしているのか。

その先に何があると言うのか。

建設的な視点を持たないまま、

膨大な時間とエネルギーが浪費され、

結果として生み出されるものが社会の分断だとしたら、とても残念に思う。

オリンピックの是非以前に、今と未来の社会のあり方についてもっと注意を払うべきではないだろうか。

いつの間にかオリンピックそのものが悪者になっていたりするのも残念に思う。

権力と金にまみれたオリンピックが繰り返されてきたのも事実であるが、

まずいところがあるなら、まずは改善を目指せばよい。

それができないうちは五輪などやらないと、

そうした視点から入るべきではないか。

冷静な議論をすっ飛ばし、感情的に◯だ☓だとやってるようでは、進む話も進まなくなる。

オリンピックは現実に存在しているのだから、

オリンピックを頭からダメなものとして決めつけてかかっても、現実的な方向性を見失ってしまうだけである。

5ヶ月後に迫った東京五輪については、

よい形でオリンピックを開催するのは難しいのではないか。

少なくとも、私の思うオリンピックからは大きくかけ離れている。

だから、東京五輪の開催を望むかと聞かれたら、「私は望まない。」と答えてきた。

だが、

推進派を罵倒して「止めろ。」などと口にしようとは思わない。

そんな言い方をしても何もいいことがないと思うからだ。

東京五輪をやるやらないはともかく、

せっかくの機会なのだから、

そもそも五輪とはどうあるべきかについて、冷静で建設的な議論を重ねていきたい。

そうした議論をしっかりしていけば、

やれる時はやるだろうし、止めるべき時は止めることが自然にできると思う。

復興五輪だ、コロナ乗り越え五輪だ、などと言うのなら、

前例にとらわれず、多くの人が納得できる新しい五輪のあり方を提示すればよかったのだ。

今回はそのチャンスでもあったはずだが、

心のこもった、中身を伴った準備をしてきただろうか。

納得のできていない人がこれだけいる中で、五輪を開催しても、何も残せないと思う。

今のままでは、五輪をやってもやらなくても、どちらも寂しいことにしかならないような気がしている。

選手たちもとても気の毒である。

とりあえず、橋本聖子新会長に注目している。