児童相談所に勤務していた頃、自己愛性パーソナリティ障害について考えることも多かった。
仕事上、どうしても避けて通ることができないのだが、
そもそも「自己愛性パーソナリティ障害」とは何か。
言葉の定義が共有できていないと、話がかみ合わないと感じることも多い。
例えば、
自己愛性パーソナリティ障害と聞いた瞬間、
「自己を愛すること自体が誤りであり、異常。」と考える人もいる。
客観的に物事を受けとめられない人の根本原因は自己愛にあるとし、
自己愛そのものを否定する考え方である。
自己愛を、自意識過剰に繋がる危険な感情として一刀のもとに斬り捨て、
その考えを押しつけてきたりする。
自意識は汚いもの、できるかぎり排除すべきであると信じて疑わないのだ。
こうした人と話していると、どこかで行き詰まりを感じることになる。
児童心理の世界では自己肯定感が必要であるとされているが、
自己愛を否定しながら自己肯定感を持つことは難しい、というか、私は不可能だと思う。
そこで突然、「自己愛と自己肯定感のバランスが大事になってくる。」などともっともらしいことを言ってみても、現実的ではない。
ちなみに、私の「自己愛性パーソナリティ障害」の解釈は、
「原因はともかくとして、本来の自己をそのまま認めることが出来ておらず、その欠乏感による反動で虚構の自分に陶酔し、その陶酔から抜け出せていない状態。」
だいたいこのような感じになる。
児童相談所で扱うケースは、大半が親からの虐待によるものであるが、
きっかけはともかく、自己愛性パーソナリティ障害の問題の本質は、根っこの自分を置き去りにしてしまっていることにある。
まずは、寂しいと思っている根っこのところを、ちゃんと見てあげなければならない。
この根っこから目を背け、
努力して周囲から評価される自分を作ることに無理に誘導したり、本人がそこに囚われてしまうと、
むしろ自己愛性パーソナリティ障害を強化してしまう可能性がある。
私は、ここのところが、
もっと社会的にしっかりと意識されるべきだと思っている。
児童福祉の現場においては、
最低限、こうしたことを共有することが必要だと思うのだが、
私自身はあまり共有できていないと感じながら仕事をしてきた。
恨み言を言いたいのではない。
福祉の現場に限らず、
私は世間一般にこうしたことの共通意識を形成していくべきだと思っている。
だが、難しさを感じている。
これは子どもだけの問題ではない。
自己愛性パーソナリティ障害の子どもたちもいずれ大人になるが、
大人になっても無意識のうちに蟻地獄の中で苦しみ続けていたりする。
むしろ大人になってからの方が辛い。
辛いから目を背けることになる。
もしかすると、苦しんでいることに気づくことさえなく、
本来の自分を置き去りにし、
虚構の自分を作ることに血眼になっていく。
根っこの自分は寂しいまま。
誰にも見られることもなく、
むしろ隠されるようにして外壁ばかりが高く厚く、表面だけがきらびやかに強化されていく。
だが、どんなに外壁が立派になっても、根っこの自分は癒やされない。
むしろ寂しさを増していくことになる。
そうした人の幼い頃の姿を知っていたりすると、胸が苦しくなる。
そんな彼ら彼女らが親になり、
無意識に子どもたちに同じものを押しつけてしまうのを見るのは辛い。
寂しさと自信のなさのあまり、うまくいかないことを誰かのせいにしていたり、
心の中では人のせいだと思っていながら、そこをぐっと思い留まり、悪口を言わないでいる自分に酔っているタイプもいる。
両者は本質的には同じである。
また、
空っぽの自分を覆い隠すようにして、人から評価してもらうための努力をしている人は、
その努力を誰かに見てもらわないと気が済まないから、自慢話をせずにはいられなくなる。
そのくせ、思考や行動は強制的に制御するものだと思い込んでいて、理屈で自分を正当化することばかり考えていたりする。
当人は理性的に振る舞っているつもりらしいが、
現実は愚痴も悪口も自慢話も止められないでいる。
根っこが寂しいのだから当たり前である。
私は、こうした人たちにダメ出しをしたいのではない。
児童福祉は、短期的には傷ついた子どもを癒やすことだけが求められたりもするが、
人間の心理は循環、連鎖している。
そのことを無視することはできない。
子どもだけでなく、むしろ大人の側の問題なのだ。
私を含め病んでいる大人は多い。
病んでいることは恥ずかしいことではない。
現代人は環境から受ける負荷が大きい。
病んでしまうのは当たり前だし、まったく病んでいないという方が変わっていると思う。
私は、
病んでいることを受けとめつつ、地に足をつけた形で今を楽しみながら、未来の方向性を見つけていきたい。
だから、
「私はこんなに元気。病んでなどいない。」といった感じの、
いつも元気溌剌としている人を見ると、悲しくなることがある。
活発に動き回ることが目的にされてしまうのも微妙である。
特に、古くからよく知ってる人のそうした姿を見るのは辛い。
もちろん、私はその人のことを完全に知っているわけではない。
だが、彼ら彼女らの子どもの頃の姿を知っていたりすると、
見ているこちらが辛くなってしまうことがある。
その人はその人なりの流れの中で生きていくのであり、心配はしていないが、
おそらく、私からは遠い存在になっていくのだろう。
寂しいと思えば寂しいとも言えるが、
私は本当は寂しいとは思っていない。