今日は岩見沢市内の某アイヌ語勉強会に参加してきた。
今回の主題はアイヌ民族の住居チセ(チ=私たち、セ=寝る場所)における人々の生活について。
前にも少し触れたことがあるが、
チセのど真ん中にはアペオイ(アペ=火、オ=いる、イ=場所)、つまり囲炉裏がある。
囲炉裏の火は、細くすることはあっても絶やすことはない。
まるで延暦寺の不滅の法灯のようだが、
囲炉裏の火はアペフチカムイ(アペ=火、フチ=おばあさん、カムイ=神)と呼ばれ、
常にそこに鎮座しているものと考えられている。
チセの住人たちはアペフチを囲むようにして座り、男たちは木彫りで道具や祭具を作り、女たちは刺繍やゴザ編みをする。
アペフチはチセの営みを全て知っている。
だからチセに住む者は、
常にアペフチに語りかけ、何かしらのメッセージを受け取りながら生活している。
これはある意味、自問自答と一緒であると考えることもできる。
だからアペフチの前では嘘やごまかしは通用しない。
火のそばで代々語り継がれてきたことがあるとすれば、
それはそれが嘘やごまかしのない、私たちにとって大切なことだからに他ならない。
こうしたことが気が遠くなるくらい長い時間繰り返されてきたのであり、
私たちはその意味を考えないわけにはいかない。
時が経ち、いかに社会が変化しているとしても、先人からのメッセージを受けとめ、
子や孫たちにも繋ぐべきことは伝えていかねばならない。
そのためには、メッセージを単なる知識として知っているだけではダメなのだ。
例えば、アイヌ民族は独自の文字を持たない民族である。
このことをもって、アイヌは文字を使う能力の低い民族であると考える人が少なくないが、
それは違う。
彼らはあえて文字を使おうとしなかったと考えるのが自然である。
文字はたしかに便利だが、あればどうしてもそこに依存するようになるし、弊害も出てくる。
私たちはそのことに自覚的である必要がある。
文字に依存するとはどういうことか。
覚えていなくとも、理解などしていなくとも、いつでも必要な時に記録された文字を見れば解決するのだとしたら、
別に覚えなくても、今すぐ理解しなくてもいいということになる。
結果として、理解することや責任を負うことを先送りにすることが当たり前になる。
私は以前、アイヌ民族の方の話をメモに取ろうとしたら、
「あんたは私の話を聞くつもりがないのか?」と言われたことがある。
「メモを取る人は、人の話をその場で受けとめようと思っていないことが多い。失礼な態度だと思わないか?」、
「もしあんたが今この場で理解する気がないなら、私はこれ以上話す気にならない。」
まったくそのとおりである。
アイヌ民族の方々は理解と記憶がしっかりしていると感じることが多い。
本来、言葉というものは責任を持って発せられたものであり、
同時に聞く側にもそれをしっかりと受けとめる責務がある。
そこを大切にしてきたということを、今一度よく考えてみるべきではないか。
文字を持たない民族が文化的に劣っていると考えるのは、不当に差別的で誤った認識であると言わざるを得ない。
現代人は文字に依存しながら生きている。
だが、言葉の重みが失われているから、平気でスルーしたり改ざんされたりしている。
誤解が放置されていたり悪用されてしまうことによる混乱やトラブルも少なくない。
昔が正しいとか優れているとか、現代社会にダメ出しをしたいわけではない。
だが、何かを伝えようとするなら、
そこに魂を乗せていかないと、いくら文字で記録してみても力は宿らない。
実は、元々は文字を持たない民族の方が圧倒的に多数派である。
文字などなくとも社会は成立する。
だが、今の私たちの現実は文字文化に支配されている。
文字にとらわれ、使いこなせていないことが問題なのであり、
文字そのものが悪いわけではない。
これからの時代は、文字に振り回されないことが求められると思う。
このように、先人からのメッセージには今を生きるためのヒントが隠されている。
歴史から学び、今をより良く生きることによって未来への道筋を作り出していきたいと思う。
いい意見です。わたしも、若い頃、ある作家にインタビューしていて、メモを取っていたらしかられたことを思い出しました。文字に頼りすぎないこと、大事なことですね。ありがとうございました。
ありがとうございます。どんな時でも魂を震わせながら生きていく。そのために公務員を退職しました。自分に正直にやっていきます(^^)