児童相談所での勤務経験がきっかけとなり、最近も心理について調べたり考えたりする機会があるが、

専門的な知見が一般に共有できていないと感じることが非常に多い。

そんなに難しいことでなくても、根っこのところだけでも共有したいと思うのだが、

基本的なキーワードを掲げようとしても、その真意が伝わらないばかりか、反対に誤解が広がってしまったり、なんとももどかしくなることがある。

あまりにも面倒くさいから、書いたり話したりする人が少ないのではないかと思っている。

例えば、

「現代のような社会において精神に歪みを抱えているのは、ある意味当然であり、人として正常な反応ととらえることもできる。」

と、これだけ書いただけでも、

けっこうな混乱が生じているのだと思う。

「正常」だけが普通、あるいはまともで、「異常」は劣っていたり危険なのだと、そのように思い込んでいる人は少なくない。むしろこちらの方が多数派かもしれない。

こうなってくると、端から話が噛み合わない。

わかる人にはわかるのだが、わからない人には全然わからない。

どんな場合においても、普通の人と普通ではない人のどちらかに分類しようとし、

普通の人の方が優れていて、普通ではない人は劣っていたり危険だと見なす習慣が染みついている人がいる。

これをガチな常識として寸分も疑わず、それ以上のことを考えようとしない。

そういう思考しか持たない人とは、

「正常」という言葉の意味そのものを共有することができない。

以前、「差別」についてこのブログに書いたことがあるが、

差別用語などに神経質になりすぎることによって、差別の本質から意識が離れてしまうことを指摘した。

言葉に敏感になり、次から次へと差別用語として認定していくことが差別を無くすことにつながるのではない。

ともすると差別など含まない言葉にまで差別性があるとする思考は、

むしろ差別を強化しているということに気づくべきである。

例えば、アスペルガーやサイコパスといった言葉もそうである。

これらの言葉はその特性の一部を表現しているものであり、差別的な目的を持って存在しているのではない。

こうした言葉に過剰反応する思考こそ、差別的であるということに気づかねばならない。

多動だったり、自己中心的だったり、思い込みが強かったりするのは異常なことでもなんでもない。

これらは個性である。それもどこかのラインで真っ二つに区分できるわけでもなく、

グラデーションがかかっていて、同一人物であっても時間の経過や置かれている環境によってその度合いは変化する。

肌の色が黒っぽいとか、背が高いとか、髪の毛が硬いとか、手のひらが大きいなどの身体的な特徴となんら変わらない。

生まれ育ってきた環境しだいで心身に歪みが生じるのも、自然なことだし悪いことでもなんでもない。

単なる事実でしかない。

普通と比べて劣っているとか危険だとか、すぐにそんな風に考えてしまう思考が、差別の本質なのだということに私たちは気づかねばならない。

心理学の世界では、物事を色眼鏡を通して見るのではなく、そのまま受けとめることが起点となる。

これは、虐待を受けてきた子どもたちの心理を考える時にどうしても必要な、社会全体で共有すべきもっとも基本的なスタンスだ。

児童虐待が社会の大きな問題としてクローズアップされてはいるが、

今のままではいつまで経っても問題の本質に行き着くことができない。

社会がもっと大人になる必要がある。そのためには、一人ひとりが浅はかで短絡的な思考から抜け出さなければならない。

今回はちょっとキツめのことを書いてみたが、

正直言うと、私は少し怒っている。

苦しんでいる子どもたちのことを考えた時、一刻も早く大人がしっかりしないといけないと思うのだ。

児童虐待のことに限ったことではない。

物事を何でもかんでも単純化して理解しようとする悪癖が社会に蔓延している。

全否定まではしないが、そこに弊害があるということを最低限認識しておかないといけない。

実際の物事はどれもこれも単純じゃない。非常に複雑である。

想像力を総動員して色んな可能性について考える習慣を身に着けていきたいと思う。