投資をするもしないも個人の自由である。
やりたい人だけがやればいいと、私も思う。
だが、
投資などしなくても、真面目に働いてさえいれば生活に困ることはないかと言えば、
今まではともかく、これからの時代はかなり難しいのではないか。
既に、日本は以前のように安定的に労働収入を確保できる状況にはない。
少子高齢化が進み、AIが社会に浸透している。
過去を懐かしむことはできても、後戻りはできない。
人間の労働の価値は相対的に下がり続け、賃金が下がるだけでなく働く場所そのものが減っていく。
こうした未来予測には反論もあろう。
たしかに、うまくいけば働き場所も賃金も確保できるかもしれない。
だが、あてにはできないはずだ。
私たちは起こりうる最悪の事態をも想定し、生きていくために生活費を確保していかなければならない。
働きたくても働く場所がなくなるかもしれない。
そんな心配はいらないと誰が言い切れるだろうか。
現実に、働いても働いても生活は苦しいままだったり、職を失い途方に暮れている人も少なくない。
誰にとっても他人事ではない。
いつどうなっても生きていけるように今から準備が必要だと思わないか。
生涯現役でやっていくつもりでも、病気や怪我や年齢で働けなくなったらどうするのか。
そのために貯金しているのかもしれないが、貯金さえしていれば大丈夫なのか。
物価の動きもわからない。年金もあてにできない。
そもそも自分が何歳まで生きるかもわからない。
仮に1億貯めることができたとしても、
働くのをやめたその瞬間から、その1億は減り続けるしかない。
1億で足りると言い切れるだろうか。
足りるとしても、
労働収入だけで1億をどうやって作るのか。
そう考えた時、
少なくとも私には、投資をしないという選択肢はない。
今は老後が心配だからと消費を控えせっせと貯金をしている人も多い。
比較的お金を持っている人でもお金を使わないのだから、経済が回るわけがない。
既に国内には作っても売れない流れが染みついてしまっている。
作らなければ市場は縮小していく。
少子高齢化との相乗効果で加速度を増して市場が縮小していく。
地方から順番に経済的な活力が失われているが、
東京や大阪など大都市なら安泰と言えるだろうか。
物を作っても、店を出しても売れないのなら、物を作らなくなるし、店も減っていく。
そうなってしまえば、いくら貯金を持っていてもなんの役にも立たないのだ。
日本人の現金預金の残高は2,000兆円にも上ると言われている。
このままでは、その価値を生かすことなく円の信用は失墜し、紙切れ同然になりかねない。
多くの日本人は投資の意味を正しく理解していない。
投資は社会貢献活動である。
時代に見合った企業活動を資金面から支え、成長させるための立派な社会貢献である。
投資を、楽して個人資産を増やす博打行為でしかないと思いこんでいるとしたら、とんでもない勘違いだし、
勘違いだけでは済まされず、遠からず悲惨な未来を引き寄せることになると思っている。
せっせと働いて得たお金をそれぞれが貯め込むだけで社会に循環させないのだから、経済が窒息するのは当たり前だ。
お金は、使うべき時に適切な形で使わないと、あっと言う間に腐ってしまう。
この国を覆っている「貯金が美徳で投資は下劣」といった誤った観念から早々に脱却する必要がある。
投資は難しくない。誰でも小さなところから始めることができる。
たしかに失敗事例も少なくないが、
それらは金に目が眩み投資の本質を見失ったごく一部の者の姿に過ぎない。
リスクを許容できるところから少しずつ始めて、投資をより身近なものにしていくべきだ。
だから私は投資をして、あえてその話を書いたり話したりしている。
専門家でも何でもない、ど素人の私がやることに意味がある。
私ももう51歳。アフターコロナの社会では自分の頭と体を使って汗をかける機会は限られてくる。
だからこそ今から資金面でも参加していく。
この「参加し続ける」という気持ちは、
これから私が年を取って体が動かなくなってからも生きがいになっていくという直感がある。
増え続ける日本の中高年が、何をどう考え、どう生きるかで未来は大きく変わると思っている。
明るい未来を引き寄せる。そのために私は投資をする。
この年代になって有形無形の投資の必要性に気が付きました。
お金は循環させるものであり、個人が抱え込んでしまうと経済そのものが死んでしまう。その中にあって投資は文字通り投げうつもの。自分の手元から手放すことなんですよね。手放す行き先を指定できる。形はともかくとして、どこに注力するか。この発想はお金が絡んでいてもいなくても同じ。これからの時代のスタンダードになっていくのだと思います。
投資と投機の違いを知ることが大切なことだと思いますね。
まさしく、そのとおりですね!