将来ベーシックインカムを採用するかしないかで言うと、採用するしかないのではないか。

すぐでなくとも、いずれはやらないと日本経済が立ち行かなくなる。

何故なら、今までのように働く場所がなければ労働者は賃金を得ることができず、消費者の可処分所得はさらに減ることになる。

このことは、資本家と労働者の格差の問題だけでなく、国内においてお金の循環がなくなるということを意味する。

お金の循環がなくなれば、資本家であっても収益を上げることはできない。

いくら価値のあるものを作っても、買う人がいなければ儲けは出ない。モノを作ること自体やめてしまう。

そうなると、お金を持っていても買うモノがない。お金を使えないのだから、お金の価値も無くなる。

これは経済の死を意味する。

国力もガタ落ちし、国際競争力も失うことになる。

そうならないように、どうしても消費者にお金を使ってもらう必要がある。

今までは労働することによって得た賃金で消費が繰り返されてきたのだが、

これからの時代は働きたくても働く場所が見つからない。

総体として労働者に支払われる賃金は大幅に減っていくことが予想される。

もはや賃金だけで消費を促すことはできない。

ならば、消費者にお金を使ってもらうために手渡すしかない。

これが今議論されているベーシックインカムである。

個人レベルでは自主自立の精神で経済的自立を果たせる人もいるだろうが、それは一般的な話ではない。

経済が死んでしまったら、お金を持っていようかいまいがお終いなのだ。

だから、国は必ずお金を循環させることを考える。

成功モデルを目標に個人が努力することを否定はしないが、それは飽くまでも個人的なことであり、国レベルの解決策ではない。

国内で進行している少子高齢化は、

生産年齢人口の減少による生産力の低下と、消費の冷え込みがダブルで押し寄せてくることを意味している。

この中で経済を機能させていくことは容易なことではない。

今までと同じ価値観を持ち込んでも無意味である。

変化を冷静に受け入れ、未来を見据え、国レベルでも個人レベルでも、今できることを一つひとつ実践していかないと、目指すべき未来に近づくことはできない。

AIの進出などにより、これからも労働者の居場所は減り続ける。

今さら労働者の居場所を作れと叫んでも無理なものは無理だ。

無理やり作ったとしてもかなり居心地の悪いものにしかならない。

相手はAIなどの高性能な機械なのだ。正確さやスピードで太刀打ちできるはずがない。

労働者であることにしがみつくのではなく、考え方を転換することも必要になってくる。

そもそも人生において大切なこととはなんであろうか。

死ぬまで労働者であり続けることなのか。

いつでも選択的に労働できる社会は素晴らしいと思うが、

労働しないと生きていけない社会、労働を強いる社会には問題があるのではないか。

その意味で、今の流れは歓迎すべき流れと考えることもできる。

労働から解放されると時間が私たちの手元に戻ってくる。

今までの私たちは飼いならされることに慣れすぎてしまっていて、

自由をどう使いこなしたらよいかわからないでいるが、

これは一時的な混乱に過ぎない。

働くということはどういうことか。

どこかにぶら下がって、ただ言われたことをやるということではないはずだ。

自分の頭で自分の役割を考え、自分の責任において行動する。

これこそが働くということだと思う。

今は、誰かに強いられてまですることの価値が下がっている時代である。

やる気がでないとしたらそこには理由がある。モチベーションの低下などと言われているが、そうではない。

そもそも惰性でやっていることの価値が下がっているのだから、やる気が出ないのは当たり前なのだ。

労働から解放されれば、一人ひとりの手元に時間が戻ってくる。

最初はどうしたらいいかわからないかもしれない。

だが、慌てずに自分自身と向き合っていたらいいと思う。

必ず自分の役割が見えてくる。

役割を果たすことはもっとも自然なことだから、

無駄な緊張からの脱却と同時に、自動的に進行していく。

そこには高いハードルなどない。

役割を果たすことは人生の喜びそのもの。

少子高齢化によってもたらされるものは悲観的なことばかりではない。

働き場所がないなら、自分で探せばよい。

見渡せば必ず見つかる。老人が増え続ける社会においても新たなニーズが次々と生まれている。

矛盾を感じながら縛られて生きるよりよっぽどいいではないか。

しがらみから抜け出し、自分の役割に忠実になる。

そんな流れが来ているのだと思う。