同じものを見ていても感じ方は人それぞれである。
感じ方が違うのは当たり前なので、私はそこは気にならないのだが、
想像力が決定的に欠落している人とは会話自体が成り立たない。
自分が知っていることだけが真実であると思い込み、自分が知らないことには一切配慮しない人がいる。
例えば、学校で習っていないことやネットで検索しても出てこないものは、デマだと決めつける。
自分が知っていることなどほんのわずかだと言うことに気づいていない。
どんな物知りであっても、現代科学を総動員しても、私たちは知らないことの方がはるかに多い。
知っているつもりのことでも、知識として知っているだけでは知っているうちに入らないのだが、
彼らはそうしたことにも気づかない。
物事を単純化しないと気が済まない人も少なくない。
あれは有るとか無いとか、正しいとか間違っているとか、
そんなことは一人の人間の主観に過ぎないのだが、それをたった一つの真実であると思い込んでいる。
個人的な主観であれば、それが人の数だけ存在しているということなのだが、そこに気づくこともない。
いくら単純に世の中を理解しようとしても、現実は単純なものではないのだから、
単純化しようと力めば力むほど、おかしなことになる。
私たちが成すべきは、今をよりよく生きることのはずだ。
知っていることが大事なのではない。
わかりやすいことが大事なのでもない。
学校のテストで良い点を取るのが目的ではないのだから。
例えば、
そもそも地域の歴史や文化などは、誰かから教えてもらうようなことではない。
自分で感じ、想像し、未来を作るために思考し、当事者として実際に行動する。
そうした性質のものだ。
北海道に住んでいるなら、
わざわざ教えてもらわなくても、周りにアイヌ民族の方々がたくさんいることに気づくはずだ。
であれば、アイヌ民族の人たちがどんな歴史を生き抜いてきたのか、考えないわけにはいかない。
そして、アイヌ民族の人たちが今どんな気持ちでいるのか、自ずと想像することになる。
こうしたことは、北海道に住んでいるなら自然なことであるはずだ。
どんなにとぼけていても、避けることのできないことだ。
そしてこの現実の中で、今をどう生きるかが問われている。
そのために知識を使えばいいのだが、
知識を誤用し、認知そのものが歪んでいることが少なくない。
だから的外れなことになってしまう。
私たちは想像力を働かせる必要がある。
たまたまアイヌ民族のことを例に挙げたが、
どんなことでも政治やら何やら色んなことが絡み合っていて、とにかく単純ではない。
この面倒な現実の中で、私たちはよりよい今を作り出していかねばならない。
私自身も想像力をフル稼働し、新しい未来に向けて小さな歩みを刻んでいきたい。