この世で成し遂げたいことがあり、それが自分一人の力だけではどうにもできない場合、どうするか。
今、この問いについて考えている。
こんなことを考えるようになったのは、屈斜路コタンのエカシに会ってからだ。
初めてエカシに会ったのは2014年の夏。
以来、私はエカシの生き方に強い関心を抱き、その生き様から多くの刺激を受け続けている。
滾るような情熱と圧倒的な実行力。
このエネルギーを、エカシはどのようにして思う形に作り変えているのか。
6年前、屈斜路湖畔に鎮座するエカシ手作りの巨大な建造物を初めて見た時、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。

この建造物は、年に一度だけ、絶滅種を鎮魂するための祈りの儀式を行う会場として作られたものだ。
丹精込めて、時間と手間をかけて作り上げられた舞台、客席、etc…。
私はそこに無数の魂が宿っているのを感じ、鳥肌が立った。
その時の衝撃は、今もそのまま私の全身を駆け巡っている。
理屈ではない。
私は強い引力に引き寄せられている。
引き寄せられているのは私だけではない。
エカシが若い頃から、それこそ50年以上前から、多くの人がエカシの周りに集まってきている。
エカシは、
集まってくるたくさんの人々の心を大きなところで束ね、その大きな心の束を揺り動かし、未来へと繋がるうねりを作り出そうとしている。
エカシは芸術家なのだ。
年に一度だけ行われる絶滅種鎮魂祭では、多くの人々の思いをエカシがデザインし、一つの形にしていると私は思っている。
そこには、エカシにしかできない業がある。
エカシの揺るぎのない思いと情熱がベースとなり、
そこに集う人々の思いをエカシが融合、化学反応させ、
その総体の言語で、私たちを包み込んでいる無数の神々と対話をしている。
神々と対話をするに当たっては、いい加減な気持ちでは臨めない。
祭とは本来そういうものだ。
エカシの精神は研ぎ澄まされ、ピリピリとした緊張が走る。
それはけして祭の時だけではない。日頃からどのような心持ちで神々と向き合っているかが常に問われている。
その意味で、エカシのそばに居続けることはけして簡単なことではない。
大自然の恵みへの感謝の気持ちを忘れたり疎かにしたと見れば、
まさに烈火の如く、エカシは厳しい姿を見せる。
まるで地震や台風のように感じることもある。
エカシのすぐ近くに居たとしても、いつ遠くへ吹っ飛ばされるかもわからない。
だからそれ相当の覚悟がないと、ショックで自分自身を見失ってしまう可能性がある。
実際、私も何度か吹っ飛ばされている。
このエカシのことをまるでカムイのようだと言う人もいるが、私もそう思う。
厳しさの中にこそ対話がある。
エカシとの対話。
自分自身との対話。
神々との対話。
だが、これは私の勝手な解釈だ。
エカシにはエカシの役割があり、
エカシはその役割を果たすためにシンプルに生きているようにも見える。
エカシのことをとても愛情深い人だという人がいる。
だが、それが愛情なのかどうかは私にはわからない。
こういうと誤解されやすいのだが、
このエカシに愛情などないと言いたいわけではない。
エカシの場合、
エカシにしかできないものを作り上げていくためには、愛情が邪魔になることがあるのかもしれない。
そう思うことがある。
元々愛情を持ち合わせていないのか、
もしくは、
本心を隠し、時に鬼となっているのか。
突き放す厳しさ、それこそが愛だと解釈することもできる。
だが私は、そこに愛があると思いたいからあると思い込むと言うのも何か違うと感じている。
私は、
エカシの生き様をこの目にそのまま焼きつけ、解釈をしないでいようと思っている。
私はエカシのことを私たちを包み込む大自然のように感じている。
大自然とは対話が必要であり、その関係は対等でなくてはならない。
エカシのこともリスペクトしているが、私は従属しているわけではない。
ウレシパラム。
育て合う心。
エカシと関わっていくということは、ともに育て合う関係でなくてはならない。
そうでないとエカシに対して失礼に当たると私は思っている。
その意味で、日本的な謙遜心に縛られているわけにはいかないのだ。
とにかく私はエカシから多くのことを学んできている。
だからエカシに感謝している。この気持ちがなくなることはない。