道東の某エカシから新しい刺激をもらい、昨夜遅く家に帰ってきた。

帰り道の車中、今とこれからについて考えていた。

エカシはいつもエカシの都合で動いている。多くのことを受けとめ、その上で流れるように判断している。

深い意味はあるようでないだろうし、ないようであるとも思える。

だが、エカシは今の私を見た上で様々なことを直感し、その上で動いている。

エカシの振る舞いや言動には、嵐のような激しさを感じることがある。

そこには、それ相当の耐性と覚悟がないと、あっという間に遠くにまで吹き飛ばされてしまうくらいの力がある。

受け身を間違えると、大きくて硬い岩に頭をぶつけ、2度と動けなくなりそうなくらい強烈なものだ。

実際、私も何度か吹き飛ばされている。

あそこまで派手に吹き飛ばされたことはないから、びっくりするだけでなく、立ち直るまでに時間がかかったこともある。

普通なら近寄らない場所かもしれない。

今までの私は、こんなに気持ちよく吹っ飛ばされることがなかったので、

どこにどんな風に吹っ飛ばされるのか可能な限り体感してみようという気持ちでいる。

こうして文字にしてみると、ちょっと変態的かもしれない(笑)

だが、外部から刺激を受けると、人間としての生身の体と心は様々な反応をする。

傷が癒えるまでに時間もかかるし、この傷は癒えることがないと思うことさえある。

このようにして、人間の心に湧き上がってくる複雑な感情。

そこに向き合っておきたいという直感が、理屈ではなく私の体の中にあるのだ。

言い方を変えると、私の中の未開発部分の掘り起こしをしている感じ。

これはあくまで私の作業である。ある意味、私はこのエカシを利用している。

私の場合、エカシが立派だからとか、凄いと思って近づいているわけではない。

もちろん、あれだけ強烈な個性には出会ったことがないので、凄いのは凄いのだが。

私の場合は刺激を受けるために、自分のタイミングでエカシのところに行っている。

いつもいつも能天気な気持ちであのエカシの前に立てるわけではない。

あのエカシの前に私が立つためには、ある意味においてエカシと対等でなければならない。

そうでないとどこかで自由が利かなくなる可能性がある。

エカシは、巨大台風のような存在だと私は感じている。

何かの弾みで遠くまで吹き飛ばされるものもあるだろう。

飛ばされ方によっては深手を負う可能性もなくはない。

一方で、遠くに飛ばされることによって新しい未来が開かれることもありそうだ。

台風の外側にいたのだが、吹き飛ばされるのではなく、内側に巻き込まれるものもあるだろう。

中には、散々に振り回され続けることもあるかもしれない。

うまい具合に台風の目の中に居場所を得たが、安定と引き換えに、そこから一歩も動けなくなる可能性もある。

それぞれが、それぞれの場所で、それぞれの事情の中で動いている。

どれが正しくて、どれが間違っているとかでもない。

そして、今の自分がどこにいるのかは、それぞれが自分で決めることなのだ。

エカシの作り出す風に吹かれながらも、それをどう受けとめるかは全て自分しだいだ。

私自身は、巨大台風の外側から内側に巻き込まれてきたとも言える。

見たこともない台風に興味があったので、それはそれで面白い。

もしかしたら台風の目の中にいる瞬間もあったかもしれない。

でも私は、同じ場所に留まり続けるつもりはない。

風に吹かれながら、自分自身をもっと掘り起こす必要を感じているのだ。

なので、時々色んな場所で風に当たるようにしている。

今回のエカシも、私に少し強めの新しい風をぶつけてきた。

私はここで湧き起こってくる様々な感情と向き合いながら、今とこれからの現実を、私自身の手で作り上げていくのだ。

全てのことは、私がどう受けとめ、私自身が今とこれからをどう構築していくかにかかっている。

週末には私もたくさんのカムイたちの中に立つことになる。

私としても自分にウソをついたままではいられない。

エカシに何か言われているわけではなく、私自身がそう思っているのだ。

今、私の体に吹きつけている風は、

まるで私がたくさんのカムイたちと向き合い、その上で祈りの場所に立つように仕向けているようだ。

だが、カムイと向き合うことは儀式がなくても、エカシと会わなくてもできることだ。

大切なことは、常に自分を見失わないことだ。

あらゆることを客観的にとらえる視点でいると、様々なことが視界に入ってくる。

こうした儀式が行われるということも、全体の中のほんの一部に過ぎない。

だが、飛び込んでみることも時には必要なのかもしれない。

今の私はそう受けとめているし、今はその流れに乗っていようと思っている。