今まで関わってきた人の態度が急変することがある。
そういう人との関係には、元々不自然さを感じているので驚きはないのだが、関係の変わり目にはそれなりの戸惑いを感じるものである。
私がよく思うのは、期待感の取り扱い方の違いである。
期待したりされたりすること自体は悪くないことだと思う。
だが、期待が外れた時にどう考えるかで大きく分かれることになる。
私の場合は誰かと縁があった時点で丸儲けだと思っている。
その後どうなろうが期待外れだったとは考えない。期待感を持たせてもらったことに感謝しているのであって、結果は関係ないと思っている。
ここが同じ感覚の人であれば、その人との関係は安定的なものになりやすい。
一方、期待どおりにならない場合に態度が急変するタイプには、最初から不自然さを感じているものである。
その人はあるがままの私と向き合っているわけではなく、その人の一方的な都合でたまたま私に近づいてきているに過ぎない。
その人は、その人が望む結果に期待しているのであって、私そのものと付き合っているわけではない。
だから、私を思いどおりに仕向けるためにやたらと関わってくるが、それが叶わないことがわかると、突然態度が変わることになる。
しごく当然の成り行きである。
良くも悪くもない。こういう人はたくさんいるし、それはそれでいいと思っている。
こうした態度は人として不誠実だと感じ、怒りを露わにする人も少なくないが私はそうは考えない。
もちろん急に態度を変えられるのは面白いことではないが、その人はそういう人なのだ。元々そんなものだと思っていれば怒りは沸いてこない。
態度を変えられた時に怒りを覚えるということは、こちらも向こうに不自然な期待感を持っていたということになる。
私は周りに振り回されるのは得策ではないと考えており、相手が何を期待しているのかということを敏感に感じ取るようになっている。同時に、自身を客観視する習慣も染みついている。
また、
他者との関係は基本的に不安定なものであるが、自身が安定していれば周囲との関係もそれなりに安定してくると思っている。
だから私は、他者がどうであれ自身の軸を作り上げることに注力している。そうした意識で日々の生活を重ねていくことにより精神が安定し、人生がより豊かなものになると思っている。
他者に期待することは悪いことではないが、その将来像に依存してしまうようないびつな期待感に支配されてしまうと、人生が苦しいものになってしまう。
私は他者の感じ方や考え方を否定しない。現時点におけるその精神構造を想像することはあるが、それは私の推測に過ぎない。断定も評価もしない。
今その人が苦しんでいるとしたら、その人が乗り越えるべき試練なのかもしれないが、私がどうこうしようとは思わない。
ただ、
その人と私の間に何かしらの縁があったのは事実であり、突然態度を変えられたとしても、感謝の気持ちが無くなることはない。
だから私はいつも窓を開けておくことにしている。何一つとして期待はしていないが、窓だけは開けておく。上手くできない時もあるだろうが、基本的にはそういう気持ちでいる。
期待とは将来像を描くことだと思う。
将来像を描くのであれば、まず自身の在り方から考えないといけない。自分自身の今とこれからをイメージすることなく、他者との関係だけに依存するような将来像を抱いてもいいことはない。
と、私は思っている。
ここは人により感じ方の分かれるところではないか。
分かれ目は「自分自身の今とこれからをイメージする」というところである。
「何を武器にして、どこでどんな役職に就き、どんな人とどんなことをしているか。」と、ここまでは誰でも考える。
だがそれだけでは不足と言うか、一番大事なことが欠落してしまっていると私は思うのだが、分からない人には分からないのだと思う。
だが、ここのところで共感しあえる人もいる。
同じ言葉を転がしていても、共感できる人とそうでない人にはっきり分かれると感じている。
窓を開けておくというのは、心でも部屋でも清々しく感じますね。
閉めっぱなしは心でも埃が溜まってしまう物ですね。
こつばんさん、コメントありがとうございます。窓を開けておきながら複雑な心境になることもありますが、それがまたよかったりします(^^)