仕事のできる人とはどんな人だろう。
今も27年間の公務員生活を振り返っているが、たくさんの人との出会いを思い出す。
その中には仕事のできる人もいたし、微妙な人もいたと思う。
公務員一人ひとりは行政機関の歯車の一部に過ぎず、どの仕事も結局は組織で仕上げていくので、誰が担当してもその結果に大きな違いはないのだが、
その一方で、
行政組織で長く働いてきた者の実感として、
同じ仕事に当たるにしても、誰と一緒に作業するかでその過程にはかなりの違いを感じてきた。
これも紛れもない事実である。
例えば、
個人ではなくチームとして何らかのプロジェクトに当たる場合。
私自身は、
- メンバー一人ひとりの能力ややる気を損なわないこと。
- チームとしての目的を明確にした上で、全体の空気を和やかに保つこと。
他にも色々あるのだが、主にこの2つを大事にしたいと思ってやってきた。
組織の外に出ていく成果品、結果が同じなら、その作り上げていく過程の質を上げていきたい。
そうした意識の積み重ねが、組織そのものを、しなやかに、強く、持続性のあるものに成長させていくと考えていた。
私自身はそう考えてきたのだが、
実際はそうはならなかった。
まず思い出すのは自分の手柄ばかりをアピールするタイプ。
我こそはここにありとばかりに、いつも自分だけが重要な仕事をしているような顔をしている。部下をこき使い、自分だけ上から認めてもらおうとする。
このようなタイプは上司だけでなく、同世代や後輩の中にも存在していた。
ライバルたちから頭一つ抜け出したいのだと思う。
彼ら彼女らは、とにかく仕事が早い。
表計算ソフトの機能をフル活用するなど、とにかく事務処理を高速で片づける。
そこまではいい。素直に素晴らしいと思う。
問題はここから先なのだが、
他の担当者のやり方にケチをつけ、事あるごとにダメ出しし、自分の仕事のやり方を周りに押しつけようとしてくる。
だいたいは正論なのだが、これが始まるとチームのパフォーマンスは例外なく低下する。
はっきり言って、いない方がうまくいく。
だが、私の見てきた限りでは、こうした職員が幅を利かしていることが多くなっていた。
私が思うに、
彼ら彼女らの目的は、仕事を通して他者を蹴落とし、敗残者の上に君臨し続けることによって優越感を獲得することなのではないか。
もはやこれがいいとか悪いとかではない。現実なのだ。
現代はストレスに満ちた社会である。
食べていくために働き続けなくてはならない。
働き続けるためには、生き延びていかなければならない。
生き延びていくためには、他人を踏みつけていかねばならない。
本当はそんなことはないのだが、この論法でしか生きていけない人が目の前にいる。
だから私は、私の思うチーム作りを進めることを諦めた。
結果として、彼ら彼女らに何かを話すこともなく私は退職した。
これは私の主観だが、
本当の意味で仕事ができる人は、既に組織とは違う場所で何かを始めているように思う。
できる人の抜けてしまった組織には、
歪んだ優越感を唯一の心の支えに、ひたすら寄生し続けるしか方法のない人が目立つようになっている。
私は既に行政組織は機能していないと思っているが、
こうした人たちのために、組織は必要なのかもしれない。
言葉を選ばずに言えば、
今の行政組織は、
社会のためではなく、自立できないタイプの職員を当面保護するための居場所として存在しているのではないか。
自分の頭で考え、行動できる人は意外と多くない。
だが、これからは何かに寄りかかるようにして生きていくことは難しくなる。
考えてみれば、
自分の頭で考え、行動するのは特別なことじゃない。しごく当たり前のことだ。
寄りかかるものがある方が不自然だったわけで、元どおりになるだけの話である。
そうしたことをいち早く感じ取り、実際に行動してきた人もいる。
今にして思えば、公務員としてはともかく、一人の人間として筋道を通している人ばかりが胸に浮かんでくる。
仕事の定義は人それぞれと思うが、
私にとっての仕事は、
子々孫々に何を引き継ぐかを社会全体で問い続けることだと思っている。
その精神に従えば、
他者と助け合い、感謝し合いながら働ける人が、仕事のできる人ということになる。
人と傷つけ合うことのどこに価値があるのか私にはわからないが、
その人にとっては、今を生きていくためにはどうしても必要なのだと、そのように理解している。
私自身は十分過ぎるくらいに関わってきたので、これ以上そこに居続けるつもりはない。
だが、今も組織の中で奮闘している人がいる。
私はそこで主張することをやめたが、人にはそれぞれ違った役割がある。
行政組織が無くなっては困るのだ。
行政を中から変えていく人も必要なのだ。
最終的には仕事のできる人を組織に戻していく必要があると思うが、どうであろうか。