どんな人でも自信を失うことがある。私も昔は何度もくじけそうになった。
だが今は少し違っている。
自信満々ということではない。自信などはあまりないが、そんなことには左右されないという感じである。
まず、周りがどうであろうと自分は自分だということ。
人が自分のことをどう思っているのかはその人の問題であり、その人がどう考えていようが自分は自分だ。
自分が自分のことを好きなら、それでいいと思う。
また、できないことがあったって、上手くできなくたって、悪いことなど一つもない。
今まで生きてこれたのだから、基本的にそのままでもいいに決まっている。
それでも落ち込むことがあるとすれば、そのきっかけは外的な要因であることが多い。
それは学校や職場における社会的な評価だったりするが、
そんなもので落ち込んでしまうくらいなら、今までと同じように暢気に笑っていた方がいい。
学校で傷ついたのなら、学校に行く前の自分を思い出してみればいい。
職場で傷ついたのなら、働き始める前の自分を思い出してみればいい。
小さい頃から親の虐待を受けてきたのであれば、生まれてくる瞬間のことを思い浮かべてみればいい。
私たちは、元々何もないところから生まれてきた。
こうして生まれてきた以上、この心と体を使って、できるだけ暢気に楽しんでいけばいい。
むしろそのために、暢気に楽しむために生まれてきたのだと、私はそう思っている。
それでは向上心がなさ過ぎるとか、成長しないとか考える人もいるようだが、
それは違うと思っている。
向上心を持っているのなら、いつまでも落ち込んでいる暇などないはずだ。
硬直した心と体のままでは、成長などできるわけがない。
なんにせよ、自分の心と体を自由に解放できていることが前提になる。
多少反省したりすることがあるかもしれないが、そんなものはほんの一瞬で十分である。
反省することや重圧にとらわれていると、自由を失ったまま時間ばかりが過ぎ、やがて本当に何もできなくなってしまう。
もちろん疲れている時には立ち止まって休むべきだ。
何もしたくない時には何もしなくていい。
だが、そこで注意しておくべきことがある。
一般に、何もしないのは無条件に楽なことだと思われがちだが、必ずしもそうではないということだ。
楽どころか、むしろ苦痛になっている場合もある。
人間は、その置かれている環境の中で常に動き続ける生き物である。
その動きを止めることは自然なことではない。
心身が健康な時には、その瞬間、瞬間を感じ取りながら、自分にできること、なすべきことと自然に向き合えている。
向き合うというのは、対象をただ眺めているのとは違う。実際に自分の心や手足を動かして関わっていくことによって、初めて向き合うことができる。
心と体に不自然なブレーキがかかっていると、知らず知らずのうちに周囲から切り離され、負の連鎖、悪循環に陥ってしまう。
私たちはこのことにもっと自覚的であるべきであろう。
「考えるな、感じろ」と言う格言みたいなのがあるが、まずは素直に感じて、感じたとおりに行動してみたらいい。
つまらない常識に縛られていると、こうしたことからも遠ざかってしまう。
感じたままの行動は理性的ではないと思い込み、結果、考え込んでばかりで心と体が動かなくなってしまう。
感性をバカにしてはいけない。
すべては感性が土台となり、あらゆる人間の行動と思考はそこから生まれている。
社会的に、理性に則った行動が求めらるとされているが、
理性とは本来、自然で自由な行動の蓄積が前提となって生まれてくるものである。
不当に抑制的な互いを拘束し合うような社会通念があるとしたら、それは理性とは違う。
あるがままの感性を尊重できていないとしたら、そこには理性もへったくれもない。
感性を卑下した瞬間、矛盾が生じ自己を見失ってしまう。そしていずれは心身のバランスを崩すことになる。
例えば、
目の前にゴミが落ちているのを見た時にも、その時の状況によって心の動きは様々である。拾いたいと思ったら拾えばいいが、拾わないという選択もある。
そこにはいいも悪いもない。気分が乗らないとしたら、必ず理由がある。だから過剰に自身を責める必要はない。
私たち人間の心と体は、周囲から刺激を受け、そこで何かしらの反応をするようにプログラムされている。
面白いイメージが浮かんできたら、絵を描いたり浮かんできたフレーズを書きとめてみればいい。
食器を洗ったり、散歩したり、ちょっとだけ掃除をしたり、眠くなったら、好きな場所で横になったらいい。
落ち込み、考え込み、抑制的な思考に縛られて身動きが取れないくらいなら、暢気な気分で気のおもむくままに心と体を動かしていた方がずっといい。
今の自分が置かれている状況がどんなに苦しく不安に満ちているとしても、今のこの瞬間を自分らしくできていれば、そこから未来が変わっていく。
人生の時間は限られている。
どう生きていくかを追及していけば、結局はそういうところに行きつくのではないだろうか。
考えてみれば私も一人で生きてきたわけではない。
支え、支えられ、隣人とともに生きてきた。そばに居てくれる人たちの思いに報いるためにも、自身を卑下してはいけないと思う。
そのように思うことができたら、ほとんどの悩みは消えてなくなるのではないか。
それでも今が不自由でどうしようもないなら、そこから抜け出せばいい。
普段から自分らしくいれば、それだけでいいと思う。