隠れている本心を見つめてみる

私は口数の多い方ではない。完全な独り言であれば思いついたことをそのまま口にすることもあるが、人間の話相手がそこにいるのなら、その人が今どんな気持ちでいて、何を求めているかを考えながら話すことになる。

他人の気持ちを100%理解することはできないし、わかったような気がしても微妙に勘違いしている可能性もあるので、こちらから話かける時にはかなり慎重になる。

何もそんなに難しく考えなくても、もっと気楽に喋ればいいという人も大勢いる。

だが人から話しかけられるということは、そこに時間を奪われるだけでなく新たな脳のリソースを消費することになる。

それがテンポよく楽しかったり有益だったりするなら良いのだが、あまりにもどうでもいい話を突然押しつけられると正直言って不愉快に感じてしまうこともある。

私は人をそのような気持ちにはしたくないと思っていて、どうしても、無闇に話しかけることができないのだ。

だから、話したいことがあっても相手に準備が出来ていない時には話さない。

こちらの話を聞いてもらえそうなタイミングを見計らい、相手が受けとめやすいように様々なことを計算してから話し始めることになる。

一方、文字や言葉で伝えられることはほんの僅かである。全てを形にするのは不可能だしすべきでもない。

私としては最低限必要なことを簡潔に文字や言葉にするだけで、その先は基本的に受け手の問題だと思っている。最低限の想像力を働かせ、察してもらうしかない。

その上であれば、多少のズレがあったとしても少しのやり取りで確認と微調整が可能になる。

だが、肝心なことさえ伝わらず、途中で早とちりされたり誤解されてしまうこともある。

どうしても必要な修正はするし、すぐにわかってもらえそうなら補足することもあるが、私はそこにはあまり注力しない。

誤解や勘違いを完全に無くすることはできない。これはもう仕方がないことだと思っている。

以上、長々と書いてみたが、

私はこうした自分の感覚が正しいとか望ましいなどと思っているわけではない。むしろちょっと考え過ぎではないかと思っている。

相手がどうであろうが一方的に喋りまくる人も少なくない。私は自分のペースを乱されるのが苦手だが、その人が明るく伸びやかな人生を謳歌しているのならば羨ましいとさえ思う。

私の場合、幼少期の母親との関係などが影響しているはずだ。私は常に母親の様子や機嫌を窺っていた。

普段から考え事をしていて脳のリソースを常に消費しているのも、常に人の顔色を窺っているのも、人に多くを期待しないのも、幼少期の生活環境が影響していると思う。

歪と言えば歪であり、こうしたことによって見えていないことがあったり、不自由になっているところもあるだろう。

だが私としてはこれを悪いことばかりだとは思っていない。発想しだいで逆に活用できることもある。

ただ私は、幼少期からずっと根っこの気持ちを抑圧してきたと思うので、今更ながらここを冷静に見ていこうと思っている。

もしかしたら、考えようによっては、けっこう可哀想なオジサンなのかもしれないが、今の私はそうしたことに支配されてしまうことはないと思っている。

今まで見えていなかったことが見えてくるのは痛みを伴うとしても楽しい。そんな風に感じている。

2件のコメント

  1. 幼少期には己の力だけではどうしようもない事もありますが、それをプラスに働かせる能力は歳を取るにつれ大きくなっていきますね。トラウマを長所に。最高形です。

    いいね: 1人

    • こつばんさん、コメントありがとうございます。難しいと思っていたトラウマも逆利用できる場合がありますね。乗り越えてみると今までとは見える景色が変わっていたりします(^^)

      いいね: 1人

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