私が地方自治体を早期退職してからちょうど4ヶ月になる。

とにかく辞めて本当によかった。

すっかりくたびれていた心と体に生気が戻ってきている。

辞める前は辞めた後のことなどイメージできないものだが、私はその意味での不安はなかった。

どのみち最後には地位やお金の呪縛から自由になる必要がある。

あまり長くしがみついていると、最後には組織に依存せざるを得なくなる。

依存的な思考に支配されるのだけはまっぴら御免なのだ。

だから、少しでも若いうちに丸裸の自分と向き合う必要があると考えていた。

仕事は「事に仕える」と書く。

別に何に仕えても構わないのだが、そんなことは小さなことである。

そこに小さな美徳が生じる場合もあるかもしれないが、仕事=美徳であるわけではない。何かに仕えようが仕えまいがたいしたことではない。

私たちは美徳云々の前に自らの生活を守らなければならない。

単に防衛的に守るのではなく、私たちには、子々孫々のためにお互いの生活をより豊かにしていくという使命があると思っている。

私にも家族がいる。まずは家族の生活を守り、より豊かなものにしなければならない。

家族を守るために仕事をする(しなければならない)という常識が根強いが、果たして本当にそうだろうか。

私を含め多くの場合、仕事は目的でなく手段である。

自分たちの生活を守るための一つの手段として仕事がある。

生活を守るとはどういうことか。

まず自分も含めて一人一人が健康でなければならない。

その上で、それぞれが心も体も伸びやかであり続けるために、どこにも犠牲を作ってはいけない。

では、今の仕事は自身の健康を脅かしてはいないだろうか?

自分自身を含め何かを犠牲にしてはいないだろうか?

自分たちの生活を守るどころか、逆に私たちを脅かしてはいないだろうか?

周りを見渡せば、心身のバランスを崩す労働者が大量に出ている。

これは、今の仕事が彼らの生活を圧迫しているからに他ならない。

そこから目を逸らすわけにはいかない。

全ての仕事が生活をより豊かにするものであるならば、今のような苦痛に満ちた社会にはなっていないはずだ。

常識の前に思考停止していると、本来の目的を忘れてしまうことになる。

そして、徐々に自分たちの首を締め上げていくことになる。

現代の仕事とは何か。

数十年前と同じように見えても、時の流れとともに社会システムや価値観そのものが変化している。

背景が変われば仕事、つまり労働の意味も変わっている。

24時間働いても楽しい時もあれば、考えただけでも気分が悪くなる場合もある。

要はモチベーションだと思う。

少々たいへんでも、世のため人のためになっていて、自分自身の成長につながると思えることなら負担に感じないし、自分から進んで働きたくなる。

今はモチベーションを見失いやすい時代である。

いくら働いても世のため人のためになっているという実感が薄い。

自身の成長につながる気もしないし、やればやるほど心身を消耗してしまう。

客観的に考えて、今の労働環境は劣悪である。

次の世代に自信をもって引き渡せるようなものではない。

事態はむしろ悪化しているとも言える。

不景気だからと極限まで賃金が抑えられ、文句も言わずに黙々と組織の歯車として働き続けることが事実上強制されている。

強い同調圧力の中、これが日本の美徳のようにされてしまっており、とにかく息苦しい。

お互いを縛り合うばかりで、無駄な緊張、ストレスが増大している。

これが、美徳の名の下、黙って辛抱を重ねてきた結果なのだ。

これのどこに良いことがあると言うのか。

誰のためになっていると言うのか。

こんなものをこれからの子どもや孫たちにも押しつけていいと思うのか。

世のため人のためと思うなら、まず、自分を含めてお互いが縛り合うことを止めないといけない。

そう考え、私は公務員を辞めた。

家族の生活を守り、より心豊かに生きるため、丸裸の自分自身と向き合う生き方を選択したのだ。

一大決心をしたつもりはない。

水が高いところから低いところに流れるようにして、その時が来たからそうしたまでのことである。

既に時代は変わっている。

これからは私と同じように考え、行動する人が増えてくる。

緊張を強いる同調圧力の中で窮屈に縛り合うのではなく、自由を互いに喜び合う社会を楽しみにしている。