今、学校へ行くことの意味があらためて問われている。

春にはコロナで子どもたちが通学できない期間があったが、それがかえってよかったのではないかという見方もある。

そもそも学びとは、自分自身で掴み取るものであり、周りから押しつけられるものではない。

実際、コロナ休校中にグンと力をつけた子どもたちもいる。

ネットの発達した今、学ぼうと思えば誰でもいつでもどこでも気軽に学ぶことができる。

子どもたちが自発的に学ぶことができる時間を手にできたのが大きい。

そもそも学校とは何か。

表向きは子どもたちが生きていくための力をつける場所であるとされているが、

実際にはその建前とは裏腹に、

子どもたちから活力と自主性を奪い、それぞれが有している潜在的な能力を引き出すどころか著しく損ねてきた。

そりゃそうだ。

やらされている感の強い付け焼き刃の知識など、いくら押しつけられたところで身につくものではない。

この事実から目を背けることはできない。

実際には教育という名の下、

一網打尽にすべての国民を支配下に組み入れ、逆らえないようにしてしまうということであり、

要するに、国家権力のための仕組みであったと解するしかない。

そしてそれがそのまま、終身雇用、年功序列といった日本特有の労働文化に繋がっていた。

これを悪だと言いたいわけではない。多くの矛盾や課題を抱えながらも、この仕組みが日本社会を安定的なものにしてきたのも事実である。

実際、今まではいい学校を出ていい会社に勤めれば一生安泰と思われてきた。

大量の脱落者を生み出し、格差を固定化しているなどといったことが指摘されながらも、

少し前までは、学校教育が果たしてきた社会的な役割というのが存在していたように思う。

だがこのモデルは既に破綻している。

いまや黒字決算の大企業でも早期退職が一般的となり、終身雇用、年功序列といったものは既に過去のものとなっている。

要するに、今の組織は個人を抱えようとはしていない。

既に時代は変わっている。

それは同時に、

組織に依存せず、一人一人が自分自身の力で生きていかねばならないということでもある。

今はもう、学校でいい成績を取って、いい学校に進み、いい会社に勤めても、安心を得ることはできない。

であれば、なんのために学校に行くのかということにもなってくる。

今まさに、こうしたことが問われているのだと思う。

頭のいい子どもはわんさといる。

今の社会と時代の流れを読み取り、これから自分たちが何を考え、何をすべきかを知っている。

彼らは組織圧力にとらわれることなく、自分の頭で考えようとしている。ほっといても力をつけていく。むしろほっておいた方が力をつける。

せめて彼らの邪魔をしたくないと思う。