ある時を境に、急に態度が変わる人がいる。

最初はやたらと明るかったり、丁寧だったり、まるで兄弟のように何もかもをさらけ出してきて、一緒に行動したがったりするのだが、

私に対してだけ人格がガラリと変わってしまう。

極端な場合は、それこそどこにいるのかさえわからなくなってしまうこともある。

正直な感想を言うと、そういう人には最初から無理と言うか不自然さを感じているので、やっぱり、としか私は思わない。

今のような時代は、そういう人も珍しくない。

いい人という社会的な評価を得ないと立ち回れないと思わせるものが、今の社会にはある。

そして、そのことでいっぱいになってしまう人がとても多い。

それが悪いわけではない。いい評価を得ることは良いことだと私も思う。

だが、そのために自分自身に無理をかけ過ぎてしまってはだんだん苦しくなり、続かなくなってしまう。

その意味でどうしても心配に見えてしまう人も少なくない。

その人の内面の問題なのでどうすることもできないし、余計なお節介をするつもりもない。

だが、その人が苦しみの中で、なおも私を信じようとするのであれば、私なりにその思いを大切にしていこうと思う。

「いい人」の定義は、人それぞれと思うが、

そこを本当に大切にしようと思うなら、

自分なりに定期的にチェックしたり、必要に応じてアップデートしておかないとどこかで続かなくなってしまう。

だが、一度でもいい人としての評価を得てしまうと、嵌まりやすい落とし穴もある。

無意識のうちに、その評価を自身の唯一の拠り所にしてしまうのだ。

そうなってしまうと、その評価を守り続けることに窮々としてしまう。

これは相当に苦しいと思う。

私の場合は、何であれ持続可能なことが前提になると考えている。

そのために、全ての縁を大切にすることが根底となっている。

縁を大切にするとはどういうことか。

私たちは自分だけの力で生きているのではない。

空気があり、水があり、無数の魂にいつも手厚く守られている。だから、いつも見守ってくれていることに、私は感謝している。

こんなこと、ありふれた話にしか聞こえてこないかもしれないが、

実は頭でわかっているつもりになっているだけのことも多い。

自分は生かされている。このことを忘れない。忘れようとしても忘れることなどできないことなのだ。

私たちを包み込み、育んでくれている無数の魂は、私たちがどうあることを望んでいるだろうか。

生かされていることに本当に感謝し、その恵みに報いるために、私たちはどうあればよいか。

こうしたことを理屈で考えることも悪くないが、

わざわざ考えなくとも、心から感謝しているのならば自然と喜びの波動が全身から溢れ出てくる。

それだけで十分。これが全てだと思う。

これこそが全ての縁に報いることだと思う。

無数の魂たちと喜びの波動を放射しあう。喜びのエネルギーで共鳴しあう。

そのためには常に自然体でいることが求められる。

自分自身も含め、どこにも無理をかけてはいけないのだ。

無理とは、理が無いと書く。

自身の社会的な評価よりも何よりも、まずは全ての縁と恵みに感謝する。

その姿勢が結果として社会的にも評価されることになると思う。

全ては繋がっている。社会的な評価だけが独立して存在しているのではない。

私たちは自然から切り離された現代社会に生きているが、少しずつ気づき始めてもいる。

北海道には縄文以来の精神を大切に引き継いできたアイヌ民族の方々がいる。

その精神世界から私たちが学ぶべきことは多い。

縄文に限ったことではないが、私は北海道にいることもあり、アイヌ民族の方々とのご縁に恵まれてきた。

知識として知っているだけでは、先人やアイヌ民族の方々に失礼だと思っている。

その精神を実生活に生かし、自分自身が心豊かに生きることでしか、この縁と恵みに報いることはできないと思っている。

誰であれ不安になる時がある。あらゆるものから切り離されてしまっているように感じることもある。

肉体に閉じ込められている人間は、少ない情報と刺激に翻弄され、つい感情に振り回されがちになる。自分勝手な思い込み、勘違いに支配されそうになる。

だが、辛いこと悲しいこと、憎しみや怒り、孤独。そうしたものを味わいながらも、私たちはやはり生かされているのだ。

一人じゃない。

カムイはいつも私たちを見ている。

喜んでいるか?

無理はしていないか?