アウトプットと言うと、一般には人前で喋ったり書いたりすることがイメージされると思うが、私の定義はこれとは少し違っている。
これは私が勝手に思っていることなのだが、簡単に言うと、
「アウトプットとは自己を表現すること。人目につくものとは限らないし、日常生活そのものもアウトプットになりうる。」
という感じである。
アウトプットとは、自己を表現することだと思っている。
現代のような社会で「自己を表現する」などと言うと、
平均以上の特殊技能みたいなものがなければ表現するに値しないなどと考えてしまうところがある。
だが、自己を表現するということは、本来、生きとし生けるもの全てに当たり前に備わっているものである。
そこに優劣は存在しない。
生きているという、そのことだけで当然の主張というか、自己表現がある。
ところが、人類の歴史はそこに価値の有無、優劣の概念を持ち込んできた。
これは、権力者が奴隷を支配下におき続けるためのシステムであると考えることもできる。
上手くできることは人前で披露するけど、不得意なものはやろうともしない。
分業の進んだ高度な社会などと言われたりもするが、
裏を返せば、傷つけられた自尊心の上に聳え立ついびつな自己顕示欲と、他者に依存する精神に翻弄されているだけとも言える。
これは奴隷マインドそのものである。
これは支配者にとって都合のいいことだ。
芸術やスポーツのみならず、誰にとっても身近な家事や趣味でさえ、優劣に囚われ、差別感覚に支配されている。
長い時間をかけて進化してきたはずの人類の歴史は、
私たちから、人として当たり前に備わっている価値を奪ってきた。
私たちは、自己を表現することが特別なことになっていることについて、もっと自覚的になるべきだと思う。
たしかに、料理が不得意なら外食すれば済むかもしれない。
売れもしない絵なら、いくら好きでも描くだけ無駄かもしれない。
だが、大規模な社会不安や自然災害が起きれば、外食したくてもできなくなる。
描きたい気持ちを無理に抑え込んだり粗末にしてしまうと、いずれは心身のバランスを崩すことになる。
どんなに不得意だとしても、全然やらないというのはとても不自然なことだ。
やりたいことをやらないのはもっとおかしい。
だから、
現代のような社会において自己を表現するということは、当たり前を取り戻すことと考えることもできる。
誰が見ていようがいまいが、生きている以上は何かしら表現していることになる。
まずはそこの価値を認め直す。
そして、無意識のうちに奪われている自由を、日常生活の中で取り戻していく。
具体的にどういうことかと言うと、
まず、独り言でもいいから思っていることを喋ったり書いたりしてみる。
そして、絵を描きたいなら描く。歌いたい時に歌い、眠りたい時には眠る。
こうしたこともアウトプットだと私は思う。
今は、それくらいに抑制の強い社会なのだ。
コンクールじゃないのだから、上手下手はまったく関係ない。
インプットやアウトプットをわざわざ意識しているのは人間だけだ。