私が今までなんのために働いてきたかと言えば、なんといっても生活費を確保するためだった。

生きていくためにはどうしてもお金が必要で、そのお金を稼ぐために、働くしか方法がないから働いてきた。

結果として、100%お金に縛られた働き方を強いられてきた。

だが、働くという行為は元々はお金に縛られたものではなかった、

、、と思いたい。

まず生活があり、その生活をより豊かにするために働くという行為が生まれてきたのだと、

そう思いたい。

そう思いたいのだが、おそらくそうではなかったのだろう。

かつて誰からも束縛されない当たり前の生活があったところまでは間違いない。

問題はその後。

人間の生活集団が大きくなるにつれ、社会が形成され、社会の中に支配の構造が生まれ、権力者が労働者から搾取するようになった。

現代の労働もその流れを汲んでいると考えるのが自然である。

だから、現代社会においても労働から解放されるのは簡単なことではない。

権力者は、個人をなんとかして支配下に押し込め、搾取を続けようとする。

労働者の大多数は、今のシステムが近代的で優れたもの、永続的に続くのが望ましいものとして強力に刷り込まれており、

根本的なことでさえも疑問を持たなくなっている。すっかり本質を見失ってしまっている。

元々、働くかどうかはそれほど重要なことではない。

人生において、限られた時間を如何に生きるか。こちらの方がより重要なテーマだ。

働くという行為は、自分の時間を切り売りする行為でもあり、

働いた分だけ、自分の時間が減っていることを常に意識しておく必要がある。

人生において時間は無限ではない。

私はこれまで、働きながらお金に縛られない生き方に近づくことを目指してきたが、それを実現することができなかった。

公務員としての毎日は、心身ともに疲弊するばかりで、経済的に自由になるイメージを持つことができなかった。

私は、現代のこの構造に疑問を持っている。

これからの世代には、呪縛に縛られない、人間本来の自由の上に生きて欲しい。

既存のシステムを疑い、よりよい未来をイメージする流れを大きくしたい。

これからの私は、そのために働きたいと思っている。