近視眼的なスペシャリストに陥るなかれ

生意気なことを言わせてもらうと、今は何か一つの道に秀でることに誰もかれもが血眼になっていて、全体がまるで見えていない、偏った考えの人が多すぎると思う。

それぞれがものすごく狭い土俵で勝負することに囚われてしまっている。他者に差をつけて優位に立とうとばかりしてるから、一向に話が噛み合わない。人の評価ばかり気にして、自分にとって本当に必要なことと向かいあえていない人が多すぎる。

例えば、大半の人にはよくわからない非現実的な理論を延々と振りかざす経済学者、目の前の試合に勝つことしか考えていないアスリート、家で風呂の掃除もしたことがない政治家等々。

かつて身近な生活に根ざしていた、ごく一般的で現実的な哲学が、価値の低いものとして追いやられてしまっている。

それぞれが自分の存在を認めてもらうため、その道を極めることに必死になっているが、それぞれが忙しすぎて、認め合うどころかお互いの話を聞こうとさえしていない。

こんなことで世の中がよくなると思っているのだろうか。不必要な格差やくだらない分断が進むくらいならスペシャリストなど社会の害でしかないと私は思う。

私は野球が好きだが、いつも勝ち続けるわけではない。負けることも勝つことと同じくらいに楽しく感じている。

将棋も好きで中学生の時には自分は無敵だと思っていたが、祖父にいいように転がされた思い出がある。とても楽しかった。嬉しかった。将棋を通しても他者と対話ができることにワクワクした。

時々書道をしているが、誰かに評価されるためにやってるわけじゃない。書いていると、思わぬ自分の癖が見えてくる。直そうとすると他のところで玉突きのように違いが出てきたり、細かいことに気を取られるうちに、全体に気持ちが行き届かなくなったり。

音楽や踊りもそうだが、幅広くやってみることによって、自分の意外なところが見えてきたりする。

九州沖縄以外の全国各地を繰り返しバイクツーリングした経験も生きている。どんなに社会の均質化が進んでも、地域や世代の多様性を認めうしかないと、肌で強く感じている。

こうしたことを、もっと多くの人と共有できないのほ何故なのか。みんな、何を目的に考え、全体からわざわざ目を逸らし、局視的でバラバラな主張を繰り返し続けているのか。

まあ、このバラバラ感が今の紛れもない現実で、それはそれで受けとめるしかないのだけど。

野球ばかりしていたら、私はあまり打てなかったと思う。40を超えてから私のバッティングは飛躍的に向上した。野球以外の色んな知識や経験が私の中でつながり、両目が開かれた感じがしている。

将棋の思考に触れることがなければ、想像力は今より限定的になっていて、他人とのコミュニケーションの取り方も画一的になっていたと思うし、

書道が自らを映す鏡だと気づけたことも大きかった。

そうこうしているうちに、不得意と思っていた分野にも新境地が拓かれていく。

本来は一人一人に未知の可能性を広げるチャンスがたくさんあるはずなのだ。

次の世代にそこを伝えたい。わざわざ狭いところに閉じこもるなんてもったいないと思っている。

専門家として、成功者として名を挙げることを目指すのもいいけれど、

その前に、誰もが当たり前につかむことのできる楽しさを知って欲しい。

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