私の公務員生活は、長い抑圧の中にあった。

言いたいことを言わず、やりたいこともやらず、27年を過ごしてきた。

現行憲法において、全ての国民に基本的人権と自由が保障されているのだから、

言いたいことがあるなら言えばいいし、やりたいことがあるならやればよかったのかもしれない。

だが、行政組織に属していると、事実上、非常に強い制約があると私は感じてきた。

まず、政治的中立だとか、守秘義務と言った公務員としての服務義務が、社会的にひどく曲解されてしまっていると思う。

現行の憲法において、全ての国民に自由な思想と活動が保障されているはずなのだが、

今の公務員は、その権利を自ら放棄してしまってはいないだろうか。

私がここで問題に思うのは、

公務員が自ら権利や自由を手放してしまうと、その公務員が個人的に損失するというだけでなく、

そこに引きずられるようにして、一般の国民の権利や自由までが損なわれてしまう可能性が高いということである。

例えば、「公務員の政治的中立」の意味が曲解されているがために、それが一般国民にも悪影響を及ぼしてはいないだろうか。

今の公務員は、

一切の政治的活動に参加しないだけでなく、事実上、政治から必要以上の距離をおくことを強いられてしまっている。

あたかも、政治的に無関心でいることが公務員のあるべき姿であるかのような空気に支配されており、

国民の一人として主体的な意見を持つ姿勢自体を放棄してしまっていると私は感じている。

この公務員の姿勢に引きずられるようにして、一般国民までもが政治から距離をおくようになってしまってはいないだろうか。

公務員は、全体の奉仕者であるとされている。

であるならば、国民が憲法に規定される権利を行使しやすいように努めるのが公務員の役割であるはずである。

その意味で、公務員には、一般の国民が国会権力から自由でいられるように、その環境作りに努めることが求められ、

国民が自由に思考、発言、行動できるためにあると解釈されるはずであるが、

今の公務員の姿勢は、その理念とは真逆の結果を生み出してしまっていると私は思っている。

また、

今の日本では、国民のために自らを犠牲にすることが「全体の奉仕者」であると曲解され、

公務員である前に一人の国民であることを放棄してしまってはいないだろうか。

国民の人権と自由を守らなくてはならないはずの公務員が、自らの人権と自由を放棄してしまうと、

憲法は機能しない。

公務員は犠牲になるのではなく、憲法に規定されている基本的人権と自由を自らがしっかりと享受することを意識すべきである。

全体の奉仕者であるはずの公務員が、

社会全体が機能不全に陥っている今の実態を、見て見ぬふりしているというのも、何ともひどい話ではないか。

こうしたことをずっと疑問に思っていたのだが、

私は、組織の中から意見したりしてその体質を変えていくことはできなかった。

組織の中から変えることができないのであれば、

外に出て、自分の時間とエネルギーを少しでも効果的に使っていきたいと考えるようになった。

今は、社会全体が国家権力による圧制からの自由を手放してしまう傾向にあり、立憲主義が形骸化してしまっているが、

この現状を、流れを変えていきたいと思っている。

今の社会を支配している、巨大で強力な同調圧力を解きほどいていくためには、長い時間と相当のエネルギーが必要だが、

すぐには目的地に到達できなくても、その方向に向かって、ひたすら歩いていくだけだと思っている。

しかし、私がやりたいことはそれだけではない。

むしろ、私の中では他のことの方が優先順位が高い。

とにかく、

退職してから、やりたいことがものすごく多い。

自由になったので、できることも格段に増えており、今は忙しくて仕方がない。

興味のある場所に足を運び、そこの空気を吸って、情報を仕入れ、考え、行動を重ねていく。

それと同時に、

どんどんアウトプットして自分の中の交通整理をしていかないと、捌けなくなってしまうということが、ここにきてわかり始めた。

だから、独り言でもいいので、どんどん話して、書いていく。

27年分の抑圧をたくさん吐き出して、ある程度まで整理していかないと、先に進んでは行けないみたいだ。

最初は、どうやったら吐き出せるのかわからなかったのだが、

毎日吐き出しているうちに、少しずつ、スムーズさが出てきたように思う。

今は、千と千尋の神隠しの「お腐れ様」みたいな感じなのかもしれない。