アイヌ語でカムイと言えば、一般に「神」と訳されるが、

カムイは、キリスト教やイスラム教のような唯一絶対神とは異なり、東洋的な多神観というか日本の八百万の神に近い。

天空や大地、自然現象や動植物だけでなく、人間の作った人工物にもカムイが宿っているとされる。

人間の成し得ない働きをするものをカムイと呼び、そこに畏敬の念を抱いてはいるが、信仰の対象とは少し違う。

カムイは「神」と言うよりも、「自然」とか「魂」にイメージが近いと言う人もいる。

カムイは、人間から見てよいこともすれば、悪いこともするのだ。

だから、アイヌ民族は常にカムイと向かい合い、対話を繰り返す。

天からの恵みに感謝し、自らがどうあるべきかについて自問自答するのと同時平行でカムイと対話をしている。

そして、その上でカムイに対して祈る。

万年豊作とか、大漁祈願のような一方的な神頼みとは違い、

感謝の念とカムイの声に耳を傾ける意を強く含んだ、カムイとの共存共栄の精神がベースとなった祈りである。

カムイはよいことだけでなく、悪さもすると言ったが、

例えば、

ヒグマは本来、人間に食料や毛皮などをもたらす、地位の高いカムイとして感謝されているのだが、

人間との関係性のバランスが崩れてしまい、人間に危害を加えたり悪さをするようになることがある。

アイヌ民族は、人間に危害を加えるようになったヒグマ、カムイをウェンカムイ(ウェン=悪い カムイ=神)と言う。

また、疫病などを撒き散らしながら歩き回るカムイをパヨカカムイ(パヨカ=歩き回る カムイ=神)と呼んでいる。

パヨカカムイがコタン(集落)を歩き回り、疫病に罹る人が続出すると、アイヌ民族はパヨカカムイに対して祈るのだ。

敵視するのとはちょっと違う。パヨカカムイはいつも必ずどこかにいて、今まで共存してきたし、これからも共存していくという前提がある。

だから、食物とともに祈りを捧げ、これ以上の悪さをしないように対話を繰り返すのである。

それは、

人間の都合で一方的にパヨカカムイを追い出したり、叩き潰そうという発想とは違う。

日頃の自分たちの在り方を振り返り、パヨカカムイの声を聞き取り、自分たちに過ちがあればあらためるために祈るのだ。

こうした祈りを、非科学的な迷信であるとして片づけてしまうことは簡単だが、

人類の長い歴史の中で、こうした精神が貫かれ、現代に至っても脈々と引き継がれていることを、私たちはどう受けとめるべきか。

現代人の遺伝子の中に深く刻まれている畏敬の念や祈りの精神構造の存在を認めないことには、私たちの行動心理を科学的に説明することはできないのではないか。

疫学的な観点からの研究を進めるのと同時に、社会に影響を及ぼす様々な要素を行動心理学の側面から幅広く考えていく作業も必要なはずである。

だから、私も祈り続ける。

科学的に、自らのうちなる声に耳を傾けるために祈るのだ。

感染症が流行してるから特別に祈っているのではない。

今日もたくさんの恵みに囲まれて生きていることに感謝し、あらためて自らの在り方を見つめ直し、すべての魂の幸福を祈っている。

その上で、パヨカカムイの声にも耳を傾け、また祈る。

今週末には、道東のある町でアイヌプリ(アイヌ民族に伝わる習俗)に基づいたエピル(祓い)の儀式が行われる。

この精神はけして特別なものではなく、元々すべての人の心の中にあるものだと思う。

私も、アイヌ民族の方々とともに祈る。