感染症に配慮し、前回に続き少人数で短時間の勉強会。
〇気温が上がり、春の植物が目につくようになった。
- フキノトウはマカヨ。ゆきのしたはユㇰトパキナ(ユㇰ=鹿 トパ=群れ キナ=草)。フクジュソウはクナウやクナウノンノとも言う。
〇流氷が離れた春の海
- 春の魚、ニシンはへロキ。数の子のことをホマと言う。イクラはチポロと言うが、数の子はホマ。
- 蟹のことをアㇺシペ(アㇺ=爪 ウシ=ある ぺ=もの)と言う。アㇺシぺはタラバガニのことを指しているらしい。毛ガニ、ズワイガニ、花咲ガニも何かしら呼び名があったのではないかと思うがよくわからない。
〇春分の日が過ぎて日が長くなった
- 「日が長い」ことを、トタンネ(ト=日 タンネ=長い)と言う。
- 「日当たり」のことを、スクㇱカㇻ(スクㇱ=日光 カㇻ=当たる)と言う。
- 「カㇻ」は、独特で面白い言葉。キナカㇻは山菜採り、チセカㇻは家を作るの意味になる。「~を自分のものにする」ようなイメージで捉えると良いかもしれない。
- 暖かいは、ポㇷ゚ケ。他の人はともかく、自分が暖かいと感じた場合は、クポㇷ゚ケ フミー(ク=私 ポㇷ゚ケ=暖かい フミ=感じている)と言う。誰にとっても確実に温かいであろうと思われるような良い天気の時には、シㇼポㇷ゚ケ シリ(シㇼポㇷ゚ケ=暖かい状態 シリ=状態)と言う。クポㇷ゚ケとシㇼポㇷ゚ケを使い分ける意識を持つとよい。
「蟹のことをアㇺシペ(アㇺ=爪 ウシ=ある ぺ=もの)と言う。アㇺシぺはタラバガニのことを指しているらしい。毛ガニ、ズワイガニ、花咲ガニも何かしら呼び名があったのではないかと思うがよくわからない。」とのことですが。
カニは、takapay,takakkaです。
タラバガニは、hotemtem,hotempayaya,sotkiorunapayaya,amuspe,isokorampayaya,takaxka,yayantakaxka等があります。
ハナサキガニは、huretakaxka,huresmpayayaです。
まだ他にもありますが、煩雑になりますのでここまでとします。
「春の魚、ニシンはへロキ。数の子のことをホマと言う。」とのことですが、
ホマは、「魚の子」を意味します。数の子は、「ヘロキホマ」です。
ニシンには、heroki,eroki,eruki,herokki,heroxki,herox等の方言があります。
余計なことかもしれませんが、ここの記載が正しいこととして通用してしまうと、後で訂正しようとすると、困難になります。
空知では、デタラメがまかり通っています。
例えば、妹背牛がアイヌ語で「モセユーセ」だと新聞に出ていたことがありました。
全くのでたらめです。
そこで、電話をすると「ちゃんと調べているんだ」と説教されてしまいました。
記者にすれば、当然なことです。ちゃんと妹背牛町の各種の資料にそのように記載され、空知に関するアイヌ語地名の本にもそのように記載されているからです。
空知では、デタラメなアイヌ語が主流です。
でも、なんとか本当のアイヌ語が尊重される時代がくることを希望することは無駄なことなのでしょうか。
言葉は生き物であり、その時々の使い手の魂が乗り移っていると思います。
だからこそ、私たちはそれを可能な限り正しく理解し、それを後世に伝え残すべでしょう。
しかし、アイヌ語に限らず、言語を学ぶ過程においては無数の勘違いや誤用も生まれてきたことも事実だと思います。
時代が違えば、言葉を操る精神の土台から違っており、訳したくても訳せない、現代では言い表すことはおろか、理解そのものができないことがあるのも事実です。
私が今までアイヌ民族の言葉について学んできて、一番に大切されていると感じるのは、その言葉を学ぶ中からたくさんのことを想像するということです。
例えば、「日本語に変換するならこうなると一般に言われているけど、他にもあんな説もあるらしい。さらに、誰も指摘していないけど、自分はこんな背景があるかもしれないと思っている。」と、だいたいこんな感じです。
このような態度は、由緒正しい学者さんから見れば、いい加減でとんでもない話なのかもしれませんが、
そもそもアイヌ語に関心を持つ人自体が少ない、その上で学ぶ機会のある人はさらにグッと少なくなる。さらに、縁があって小さな教室に辿り着けるだけでも奇跡に近いことだと思います。
奇跡的に学べる場所に辿り着けた人は、アイヌ民族に伝わる精神性に強い関心を抱いています。言葉についても直訳の正しさよりも、その背景となる大きなものに関心を持っている人が多いと感じています。
間違っているよりは正しい方がいいし、深掘りした知識も価値の高いものです。
しかし、教室に辿り着けた人が全員、学者のような基礎を身につけたいと思っていたり、後世に伝え残すといった使命感を持っているわけではありません。
基礎知識から不足している人、月に一度、ほんの少しだけアイヌ文化に触れたいだけで、そもそも力をつけるつもりのない人。そんな人たちがほとんどです。
教室の主催者としては参加者の目線に合わせた話題提供をしているものであり、私もその趣旨に賛同しています。
私の自身が知ってるか知っていないかで言えば、学者さんではありませんが、それなりにたくさんのことに触れてきて、知識なら持っています。
私個人としては、この教室で扱われていることで新しい刺激はほとんどありませんし、「今のはどうなのかな?」と思うこともないわけではありませんが、
大切なことは、参加者のみなさんがそれぞれの想像力を働かせることだと思っています。
この教室の参加者は、何か一つだけの最適解を導き出すことを目的にしているわけではないので、この教室で出てきた解釈は可能性の一つとしてしか認識されていないと思います。
かつてこのアイヌモシリでアイノイタクを操っていた人々、北海道のご先祖様たちは、
絶滅の危機に瀕している自分たちの言葉が見直されてきたことを喜んでいると思います。
一生懸命想像してくれる人がいるだけでも大喜びで、多少の間違いは許してくれると思います。
細かいことにこだわることも大切なことですが、それが行きすぎて、これは違うだの、あれはインチキだの、自分たちの大切な言葉が原因で不満や不信が渦巻いたり、
それでせっかくの学ぶ意欲を失ってしまう人が出たりしたら悲しむと思います。
私は、「間違いだらけだと思いますが、みんなで仲良く、楽しく思いを巡らせて学ばせていただきます。その学びの中で、ご先祖様が大切にしてきたものに気づき、後世に引き継いでいきたいと思っています。」と、いつもそう心の中で呟いています。
とても不思議なことがあります。
記載されていることは、単に単語の間違いだからです。
辞書に記載されていることだけですから、単純な問題なはずです。
記載されている内容から、辞書は知里真志保によるものと推定できます。
私は、単に知里の辞書では、そのように記載されていませんよと指摘しているだけです。
なぜ、知里の辞書を正しく引用できないのでしょうか。
とても不思議です。
今日の「プレス空父」の「社長室から」にアイヌ語地名が多数記載されていました。
驚くほどのデタラメなアイヌ語地名です。
アイヌ語になっていないのです。また、解釈もありえないことが記載されていました。
問い合わせると、「オリガミ」なるホームページからの引用とのことでした。
このように、軽い気持ちでホームページに記載しても、以外と拡散するものなのです。
間違いに気づかず、このブログを引用する方々が多数おられないか心配です。
匿名様が不思議なら不思議で良いのではないでしょうか。今に始まったことではなく、世の中不思議なことだらけであり、私自身、不思議を楽しむタイプです。
匿名様は納得されないかも知れませんが、ここは私のブログであり、私なりに誠意を込めて返事を繰り返してきています。
私に何を期待されているのかわかりませんが、納得するもしないも匿名様の自由です。私としてはこれ以上同じことを繰り返しても仕方がないので、
「ゆたかなおなかと言う人は、知里の辞書を正しく引用できない人」ということでけっこうです。
いつの世にも正しいことと正しくないことが入り交じっています。誤植や正しくないものも多数存在しているし、正しくないものが流れていることにも何かしら理由があり、それもまた楽しいことだと思う人もいるわけです。
それが私の、ここのブログの基本スタンスです。
ここに書かれていることをきっちりそのまま鵜呑みにする人もいるかもしれませんが、それはその人の問題だと考えています。
正しい学説や記述にこだわる気持ちは私も同じですが、
何度も繰り返しますが、
ここは、アイヌ文化に関心を持ち始めたばかりの、初心者の集まりの一部を、数少ない読者に紹介しているものです。
その目的は、学問としての精度の高さよりも、社会的関心の裾野を広げることにあります。
デタラメを正すのは本当に大切な仕事だと思います。匿名様、是非頑張ってください。
ただ、私は学者ではありませんし、学者とは違う視点から先人が大切にしてきたものを受けとめ、子々孫々にその精神を引き継いでいくことを優先したいと思っています。
それぞれ立場の違う者が役割分担して、いい形に進めていけたら良いですね。