現代は競争の社会である。

美しい容姿、高い身体能力、高い学歴、地位や名声、財産を得ることなどに価値が置かれている。

そのために、あるがままでいることの価値が軽視されがちである。

だから、多くの人は理想とする姿に向かって努力することになる。

努力することは悪いことではないが、努力することを強いてくる社会は歪んでいると思う。

あるがままの自分には価値がないという考えを外から押し付けられるのはあまりいいものではない。

努力強制社会は、日常の価値を見落としがちである。

非日常的な行為を殊更に特別扱いし、結果として、日常のあるがままの価値を貶めてしまっている。

もちろん、非日常的な努力から目覚ましい成果を得ることもあるのだが、

努力することによって到達した境地は、努力をやめると消えてしまうのだ。

ゆえに、成果を求める者は永遠に努力し続けることを強いられることになる。

努力すればするほど、自然体の日常からかけ離れてしまう。

一方、努力とは関係なく日常の中に価値を見つける人も中にはいる。

彼らは、必ずしも努力をし続けなくてもいいことに気づいている。


脅迫観念に支配されることなく、日常生活そのものに価値を見つけることができている。

努力は停滞を許さないものであると錯覚しやすいため、突き抜けるまで努力を強いてくる。

するとある時、ストンと脱力し、静寂の中にいることに気づくことがある。

それは、存在そのものの価値ともいうべきもので、それこそが本当の姿である。

何十年も修行したり、瞑想したことのない普通の人にも静寂は訪れる。

容姿、職業、学歴、教養、勉強した年数も修行した年数も関係ない。

瞑想歴やスピリチュアル歴何十年を誇っても関係ない。

そもそも、目覚めは誰もが生まれた時から自然にそなわっているものであり、

それは、最初からいつも目の前に当たり前にあるものである。

あまりにも普通にあるために、かえって気がついていないだけなのである。