萎縮ではなく、多動からの脱却なのかもしれない

新型コロナ感染拡大で外出自粛が叫ばれるようになり、町を歩く人が激減した。学校も閉鎖され、休業となっている事業所も目立つ。

大人も子どもも、普段所属している会社組織や学校などの社会的集団から離れ、自宅でそれぞれの時間と向き合っている。

突然で想定外の事態なので戸惑いも大きいが、悪いことばかりではなく、新しい発見もあるようだ。

例えば、

「大人は外に出て働き、子どもは学校で勉強するものである。」という社会全体に浸透している常識があるが、

その常識を冷静に見つめ直す人が増えてきている。

普段は忙しくてほとんど家にいないお父さんが家にいる。

そして、お父さんが家にいるだけで嬉しくなる子どもたちがいる。

お父さんの似顔絵を描いたり、親子で一緒にサンドイッチを作ったり。

子どもたちだけでなく、お父さんとお母さんの心にも忘れかけていた感覚が戻ってくる。

そして、ふと思う。

今まで自分はなんのために仕事をしてきたのか。

元々家族の生活があって、家族の生活をより豊かにするための仕事であったはずだ。

子どもたちが学校で学ぶことも、落ち着いた家庭生活が土台となっているからこそ意味を持つ。

そうしたことを、親だけでなく子どもも再認識している機会になっていると思う。

普段の仕事や学校は私たちの心と生活を豊かにしてくれているだろうか。

仕事が忙しいのだから家庭生活が犠牲になるのも仕方ないと思ってやってきたが、これからもそれでいいのだろうか。

必死になって忙しく働き続けて、それで社会はよくなるだろうか。

もしかしたら、常識というか惰性に流されているだけだったのかもしれない。

働けば働くほど、大切なものを遠ざけてきたのかもしれない。

家族を守り、心豊かに生きるためにはどうしたらいいのか。

これまでのように組織に属して働くことでしかその目的を果たせないのか。

テレビや新聞を見ると、リモートワークやフリーランスの話が流れている。

もしかしたら、家族のために家族に合った働き方を自分で作り上げていけるかもしれない。

誰も彼もが仕事に勉強に忙しく、家族と過ごす時間などほとんどなかったが、そこまで走り回る必要があるのだろうか。

萎縮から始まった人通りの少ない今の町の姿だが、もしかしたら今の方が本来あるべき姿に近いのかもしれない。

土曜なのにガラガラの大型ショッピングモールを歩きながら、そんなことを考えたりしている。

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