近年、自然を大切にしようと考える人が増えてきている。
もっともではあるが、何故そう思うのか。それを「地球のため」と言う人も少なくないが、本当にそうだろうか。
どういうことかと言うと、
例えば、二酸化炭素が増えると困るのは地球ではなく私たち人間である。
また、原発事故や核兵器開発による放射線で環境が汚染され、私たちが住めなくなったとしても地球は何も困らない。
二酸化炭素も放射線も、増えると都合が悪くなるのは地球ではなく人間だ。
地球の歴史を振り返ってみれば、原始地球は宇宙放射線に曝され続け、二酸化炭素濃度も現在よりもはるかに高かった。
地球にしてみれば二酸化炭素や放射線が減ろうが増えようがたいした問題ではない。
森林が減少し、砂漠化が進み、海水面が上昇して世界中で異常気象が頻発したとしても、
そうしたことは人間にとって不都合というだけで、地球にしてみればどうということでもない。
多くの人は、人間の視点から理想の地球環境というものをイメージしているのだと思う。
もちろん、私たちを常に包み込み、育んできた自然を恐れ敬う気持ちを忘れてはならない。
だが、地球は人間に何の期待もしていない。私たち人間が地球のために何かしようと考えたところで、それは人間の自惚れ、勘違いでしかないと思う。
私たち人間は地球のために何もできやしない。そこを出発点にしないといけないはずだ。
地球は、私たちが思っている以上に懐の深いものではないか。
現実の中でもがきながらも、原点を忘れず、自らの精神を高めていこうとするのか、それとも欲望に溺れ盲目的に自滅の道を突き進むのか。
地球は、ただひたすらに私たち人間を見守っているのだと私は思う。
だから、環境の保全を訴えるのならば、「地球のため」などと言う邪念はむしろ排除すべきであり、
「人間が生きていくための環境を守るため。」と、明確に認識すべきと私は思っている。
この話に関連してもうひとつ。近年ベジタリアンやビーガンと言われる人が増えてきているが、
動物を飼育して食べるという行為を問題視している人も少なくない。
だが、彼らの中に「魂は動物にだけ宿っている」という前提があるとすれば、そこに矛盾はないだろうか。
植物や鉱石をはじめ、あらゆるものに魂が宿っているとしたら、彼らはどう考えるのか聞いてみたくなる。
現代科学では、植物や鉱石などの魂の存在を証明できていないかもしれないが、
だからと言って、「植物や鉱石には魂がない。」などと言い切れるものではない。
可能性に配慮しない態度は科学的とは言えない。
「植物は食べていいが、動物は食べてはいけない。」というのは、どうしても辻褄が合わなくなる。
植物も動物も食物連鎖の中に位置づけられており、人間も人間として生まれてきたからには食物連鎖の中で生きていくしかない。
これが現実なのではないか。
これは地球上の全ての生物が逃れることのできない現実であり、良くも悪くもなく、運命なのだと私は思う。
人間が人間として生まれてくるのと同じように、人間に食べられるために生まれてくる命もある。
食べる側が傲慢で、食べられる側が可哀そうだとか、そういう話ではない。
地球の恵みに感謝することを忘れ、家畜への虐待が横行するようなことがあるのなら、そこは反省、修正すべきだが、
だからと言って人類の肉食の歴史を全否定するというのは、私は筋違いであると思う。
動物を食べることが悪いのではなく、恵みに感謝することを忘れてしまうことが良くないのである。
私たちがなすべきことは、反動的な短絡思考で肉食を否定することなどではなく、
人間として生まれてきたという、逃れることのできない運命を引き受け、
あらためて自然からの恵みに深く感謝し、
動物に限ることなく、私たちを取り囲むあらゆる魂と正面から向かい合うことなのではないか。
よく、「人間は生まれながらに罪深い生き物である。」などと言われる。
たしかに、際限なく欲望のままに振舞えば、いずれ私たちの居場所はなくなってしまうだろう。
私たちを包み込んできた自然環境と共生循環する精神を忘れてしまえば、確実に自らの首を絞めることになる。

現代人は自らを取り囲む環境に負荷をかけ続けることを宿命づけられている。
私たちは、その宿命を拒絶するのではなく、受けとめることから始めるしかない。
二酸化炭素を排出し続けるのも、放射線を撒き散らすのも、歪な形で他の命をいただくことも、ある意味、現代人の宿命である。
であればなおのこと、私たちを優しく包み込み育んできた自然とあらゆる恵みに感謝し、祈ることから始めたい。