学校が要らなくなる?

先日新聞を見ていたら、テレビ会議のような仕組みで高校に授業を配信する「遠隔授業」についての記事が掲載されていた。

テレビ会議方式は動画と違い双方向のやり取りができると言うが、正直な感想を言うと、これで実際に活発なやりとりがなされるとは思えない。学習効果が上がるかどうかも疑問だ。

こういう話が出るたび、どうしても根本的なところからの疑問が湧き上がってくる。

そもそも学ぶという行為は非常に個人的で自発的な作業である。

知的好奇心のベクトルやその吸収速度は人によって全然違う。方向性や速度だけでなく、何から順番に学ぼうとしているのか。優先順位も人によって様々である。

我が国の教育は、性格も能力も違う子どもたちを半ば強制的に同じ教室に詰め込み、同じ内容、同じレベルの授業を等しく全員に押しつけ続けてきた。

有無を言わさずこうした授業が強制されてきたが、さすがに疑問を持ち始める人が増えてきていると思う。

生きていくために必要な自分で考える習慣を身につけることよりも、組織や集団に埋没することに馴れさせることが、結果的に一番の目的になってはいないだろうか?と。

知識を得るということであれば、近年はネット動画等も身近になっており、わざわざ学校に行かなくても誰もが効率的に学べる時代になった。

皮肉なことに、自立心があり力のある学生ほどわざわざ通学することの意味を見失いやすくなっている。

考えてみれば、学校が勝手に決めた時間割を押しつけられることにストレスを感じている学生は昔からいた。

英語の時間にノートも取らずひたすら世界地図を眺めていたり、数学で基礎解析をやっている時にサイコロの確率のことをずっと考えていたり…。

彼らは無気力なわけではない。やりたいことがあるのだが学校では評価されない。「集中力散漫、理解力不足」等の烙印を押されてしまう。

しかし、その時の自分にとって興味もないことを一方的に押しつけられてもまったく定着しないし、実生活で活用できるわけもない。

彼らにとっては、延々と世界地図を眺めたり、サイコロの確率を頭の中でこねくり回すことの方がはるかに有意義なのだ。

また、本当に知りたいことを教えようともしない学校に何も期待しなくなってしまうのも当たり前の話。

私が子どもの時には、

明治以降の近現代史の授業を楽しみにしていたが、年度末のゴタゴタを理由にその部分はそれぞれが教科書を黙読するだけで終わってしまった。教師のコメントはゼロ。

金融や投資についても、中学くらいになれば最低限の知識を学び合える環境があるのかと思っていたが、中学はおろか高校に入っても「受験に必要ない」ことは一切学べない。

ずっと気になっていることがあっても大人は誰も教えてくれない。むしろ避けられてしまう。「そんなことを気にしていても意味はないから、教えられたことだけやってなさい。」としか言われない。

このようにして先に進めなくなっている子どもは今も昔も大勢いる。自問自答するが延々と空回りし、いつしか目標を見失ってしまう。導いてくれない社会や大人に不信感を抱いてしまう。

これで成績が伸びるはずもない。生きるための力が身につくどころか、意欲と自信を損なわせてしまうばかり。さらにこれを能力の問題で片づけてしまうという、絶望的な仕組みが今の教育システムなのではないか。

子どもたちの興味関心も多様化が進んでいる。

遠隔授業もいいが、その前に根本的な教育の在り方についてどんな方向性が確認されているのか。そっちの方が気になる。

相も変わらず旧態依然のつまらない押しつけ授業が続けられてはいないだろうか。

こうした疑問を残したまま遠隔授業の一般化が進んでいくのであれば、教育はさらに白々しいものになってしまうと私は思う。

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