教師が不足している。今や誰の目にも学校現場は過酷であり、教師の生活が犠牲になっている実態も容易に想像がつく。どんなに適性を備え意欲があっても、生活そのものが危険に晒されるようでは職業としては選択しずらい。
では、労働環境が改善されれば教師のなり手は確保されるのだろうか。おそらくそれだけでは解決しないだろう。
その理由は、
今の教師は組織(教育委員会、学校)の歯車の一つでしかなく、本来子どもに伝えるべきことを、教師の立場から伝えることが難しいから。
教師としての資質と意欲を持った人材は大勢いるが、今のような社会では彼らは教師にはならない。
彼らは、教師になっても本来の目的とは向き合うことさえできないと直感している。
相次ぐ不祥事報道等により、学校の現場にも社会からの監視の目が厳しく注がれるようになった。教育委員会や学校単位でも無数の禁止行為で教師の行動を縛りつけている。
がんじがらめな上、圧倒的な事務量に忙殺される。子どもとふれあう時間が削られ、結局は「点数」ばかりが重視されている教育現場。今の教師はその組織の歯車の一つでしかない。以前と比較して、一教師に認められる裁量の幅は著しく狭まっている。
仮に、無駄な事務作業や長時間労働から解放され、働きに見合うだけの給料が確保されたとしても、今のような現場であるのなら教師のなり手は確保されない。
こうした現象は教育現場に限らない。省庁や地方自治体等だけでなく、民間組織の多くもほぼ同じ。どこに属しても個人は歯車の一つでしかない。
所属している組織が社会の中で有効に機能しているなら、歯車でも仕方がないと思える場合もあるが、今の組織はほとんどが制度疲労の限界に達しているのではないか。そのため、組織の中で誇りとモチベーションを見失ってしまった職員が増えている。
力のある人材は組織を離れつつある。組織も職員を抱えきれなくなっている。おのずと既存のシステムとは別のところで新しい仕組みが作られていくと思う。教育の在り方も今後大きく変化していくだろう。
私も、あまりの仕事の大変さ、多さ、新しいことがどんどん学校に求められるようになったし、これからもますます増えることが分かったことから、安定した仕事でしたが、早期退職しました。