ほとんどの人はアイヌ語のカムイを「神」と訳すと思う。Wikipediaにも「カムイとは神格を有する高位の霊的存在」とある。
だが、これだけでは誤解されやすい。
どういうことかと言うと、「神」と聞くと、唯一絶対的な存在、崇め奉る対象としてとらえがちだが、カムイはそういうものではないからだ。
カムイは、時に畏怖の対象になるが、基本的にアイヌ(人間)と対等な関係にある。
カムイとアイヌの関係について少し書いてみる。
カムイは、アイヌモシリ(人間界)とは別のカムイモシリ(カムイの世界)に住んでおり、カムイモシリでは彼らも人間の形をしている。
カムイは、アイヌモシリの様子をいつも見ている。そして、アイヌモシリに存在する様々なものに姿形を変え、何かしらの役割を持ってアイヌの前に現れる。
例えば、クマや鮭はアイヌに自らの肉や皮を与えるため、姿を変えてアイヌモシリにやって来る。
アイヌは、そのクマや鮭を捕らえ、肉を食べたり皮を利用する。
そしてアイヌは、カムイに感謝の気持ちを込めてカムイノミ(祈りの儀式)を行う。
恵みをもたらしてくれたカムイを丁重に扱い、用意できるかぎりの食べ物やお礼の品を添えて、カムイモシリに送り帰すカムイノミを行うのだ。
だがカムイは良いことばかりをするわけではない。人間と同じように失敗したり間違えたりもするし、中には人間に悪さをするカムイもいる。
だからアイヌは常にカムイと対話を繰り返し、間違いが起きないように普段から心がけている。自然災害が発生したり病気が流行した時には、カムイに向かってチャランケ(談判)を行うこともあるという。
獣や魚だけではない。私たちに恩恵や災厄をもたらすもの、大地、空、風、水、火、動植物、病気を運んでくるのも、人間の作り出した道具も、霊性を帯びたカムイである。
日本には神頼みと言う言葉があり、神様に向かって大漁や豊作等を祈願(神頼み)する祭りが盛んに行われているが、アイヌとカムイとの関係はそれとは違う。すがるような神頼みではなく、アイヌ民族はカムイと常日頃から対等な対話を繰り返しているのだ。

イレスカムイ モシリコルチ チランケピト オリパクト゜ラノ ネワネコロカ・・・
これはカムイノミの冒頭の一例。「私たちを育てる神よ 大地を司る神よ 降臨された神よ 遠慮とともにではありますが・・・」と、あらゆるカムイに語りかけることから始まる。
こうした精神文化が北海道の地において育まれ、現代まで引き継がれてきたのには理由がある。引き継がれてきたのであれば、受け取り手である私たちにも何かしらの役割があるのではないか。
私は、先人からのメッセージを単に知識として知っているだけではいけないと思う。過去のことや少数民族による特異な文化として、自分たちから切り離して考えた瞬間にその精神は途絶えてしまうからだ。
自分自身のことを例に挙げて話してみたい。
私はアイヌ民族ではないが北海道に住んでいる。私たちを優しく包み込んでくれている北海道の自然の恵みに感謝せずにはいられない。
「今日も美味しい空気をありがとう。美味しい水をありがとう。」
こうした気持ちになるのに血は関係ない。私はアイヌ民族特有の精神文化と言うよりも、北海道の大地に伝わる精神文化ではないかと思っている。
現代に生きる私たちには、先人から学び、その教えを今に生かし、時代の変化に関係なく大切なことを子々孫々に伝え残していくという、非常に重要な使命が課せられているのではないか。
ともに北海道に生きる者としてアイヌ民族の方々と手を取り合い、感謝と謙虚な気持ちを持って毎日を過ごしていかねばならないと思う。
そう考えた時、過酷な搾取と差別が繰り返されてきた辛く悲しい歴史から目を背けることはできない。アイヌ民族の言葉までが危機に瀕している今、私たちはどうすべきなのか。
最低限のこととして、先人からの教えを守り、生き抜いてきたアイヌ民族の方々に敬意を払い、今とこれからのために、ともに学び合い支え合うという姿勢が必要なのではないか。
今の北海道があるのも、私たちが生活できているのも、アイヌ民族の方々がこの大地とともにカムイと対話しながら生きてきたからであることを忘れてはなるまい。